【メッセージ】自分が何をしたというのか

2023年2月5日

(ローマ4:1-5, 創世記15:1-7)

聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。(ローマ4:3)
 
◆信仰による義
 
アブラハムという人は、旧約聖書創世記における最重要人物の一人です。その後のイスラエル民族にとって、「信仰の父」と崇められる人でした。新約聖書の記事にも、その様子がうかがえます。族長たちの名を並べて、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と神のことを呼ぶことも一般的だったように見えます。アブラハムは、イエスの周囲の人々と文化にとって、絶対とも言える存在でした。
 
ところでパウロは、キリスト教にとってなくてはならない伝道者となりました。イエスの直接の弟子ではなかったために、最初は下っ端のように見られていましたが、元はユダヤ教のエリートで、優秀な才能を持っていたために、有力な人物となりました。その著述能力など最たるもので、新約聖書にその多くの執筆が遺っています。
 
パウロもまた、旧約聖書を知り尽くした者の一人として、アブラハムには絶大な信頼をもっていました。ローマ書とガラテヤ書で、アブラハムを引き合いに出して、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」(ローマ4:3,ガラテヤ3:6)という箇所を、創世記15:4から引用しています。
 
どうしてアブラハムにとり、ここが重要だとパウロは考えたのでしょうか。それは、どうしても、人が何かを行ったから救われる、と考えたがる人間の性質があったからです。私たちもそうは思いませんか。何か立派なこと、正しいことをしないと、神に褒められるものではない、と。子どもなどは直ちに、神さまのために何かをしなくては、というように考えます。大人も、基本はそうだと思うことでしょう。自然な発想です。
 
しかしパウロが強調したのは、信じることでした。16世紀になり、宗教改革の波の最初となったルターの注目点も、まさにここでした。当時もまた、行いがあってこそ救われるのだという考え方が当然のように支配していた中で、そうではない、ということを示すのに、恰好の聖書箇所だったに違いありません。パウロにとっても、ユダヤの律法を守るという行為があってこそ救われる、とするのが常識となっていましたから、イエス・キリストに対してそのようなことは必要ない、ということを強調したかったのでしょう。もし人間が何かをしたから救われるというのであれば、イエスの十字架は何だったのか、ということにもなりかねないからです。
 
しかしお気づきでしょう、ここにあるのは「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という言葉です。「義と認められた」というのは、どんなことをいうのでしょうか。これについては、神学的な説明が多々あろうかと思いますし、単純化してしまうことは、決して褒められたものではありませんが、それを承知で、ざっくりとこのように捉えておいて戴きたいと思います。「義とされる」というのは、「救われる」と言い換えて、概ね間違いではない、と。
 
つまり、神を信じたら救われた、というように理解しておくのです。正に、「信じる者は救われる」ということだとして、私たちはここから前に進んで行こうと思います。
 
◆神を信じないアブラム
 
パウロが、そしてルターが、意気揚々と引用したこの「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という言葉ですが、不思議なことに、元の創世記の箇所に一度戻ってみますと、少し意外な印象を受けるのです。
 
実はアブラハムという名は、神により改名されて受けた名前であって、この人は、最初は「アブラム」という名でした。「アブラム」という語だと「高い・父」という構成になっていると言われています。それが神により「アブラハム」、つまり「諸国民・父」という呼び方に転ぜられたのです。こうして、世界中の人間がやがてアブラハムのことを「父」と見なすようになります。実際、いま世界中で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のすべてにとって、アブラハムは「父」という位置を占めています。
 
このような事情から、パウロが引用した元の創世記の箇所では、まだ改名前なので「アブラム」と表記されています。もちろん「アブラハム」と同一人物です。
 
この創世記を開くと、パウロが示す「信仰者」というイメージとは、少し違う印象を私は受けてしまいます。アブラムは、さんざん神を疑っているように見えるのです。
 
創世記15章で、主なる神がアブラムに現れて、大きな報いを受けることを告げます。これに対してアブラムは、自分には子どもがいないので、たとえ財を受けたとしても、自分の子どもがそれを継ぐことができず、別人が受け取ることになる、と答えています。いきなり神の言うことを否定するのです。
 
主は、アブラム自身から子が生まれるのだ、と言います。そして空の星を見上げさせ、星の数ほどの子孫が与えられることを約束します。アブラムは、これを信じました。確かに信仰者です。しかし、最初にまず、自分の身の上を嘆いています。主の言葉が与えられてからは信じたのでしょうが、神の与える報酬については、拒むような言い方をしていたのでした。神の言葉をすべて信じたということには、疑問符が付けられます。
 
この箇所に限りませんが、アブラムは、感情を表に出すことがありません。旧約聖書は豊かな人間群像を描いており、感情むき出しという人も多々あります。しかしアブラハムはつねに淡々と喋ります。そうなると、あまり人間味を感じないのです。神に対しても怒るとか感激するとかいうことがなく、淡々と神に対して否定の言葉を発するし、表情が見えないままに、神の言葉を信じたとされます。この点は確かに、信仰者の名に相応しいと言えるかもしれません。
 
子孫がいないから報いなど空しい、とでも言いたそうだったアブラムに対して、そのことで神は議論するようなことをしませんでした。アブラムとの対話をさっさと打ち切って、無駄な議論を回避したように見えます。神の方が、対話を打ち切ったのです。
 
神が、あの星の数を見よ。アブラムを夜空の下に連れ出します。さあ、星空を見上げなさい。当時は街の灯りなどないので、晴れていればきっと満天の星空がそこにあったことでしょう。美しさもさることながら、神が注目したのはその数でした。子孫はあの星の数のように増えるのだ、と言ったのです。
 
◆星を見上げる
 
星、見ていますか。職業柄、という人はまた別ですが、そんなに夜空を見上げることはないのです、と案じます。子どもたちも、月が夕方どこの空に見えるのか、とんと興味もないようで、教えるときにはどうしても理屈だけ、という感じになってしまいます。旧暦の月の呼び名についても、だからどうした、というムードが漂います。まして星など、星座占いのコーナーのほかは、関心がないようです。
 
都市の灯りは、星を必要以上に隠してしまいます。漆黒の闇に浮かぶ星のちりばめられた風景が、どんなに恐ろしく、また美しく切ないか、確かに私も日々覚えるわけではありません。郊外に住まう者ですから、都会よりはいくらかましかもしれませんが、それでも、キャンプで山中見上げたあの星の風景は、特別なもののように感じました。
 
夏でしたから、芝の上に寝転びます。所は、その名も「星野村」。八女茶の中でも「星野茶」とくれば、香り高い玉露で有名です。上質な茶には定評があり、また、星が日本一美しく見える、というふれこみもあるのだとか。
 
そこで見た夜空には、流星群がひっきりなしにラインを描いては消えていました。星とはこんなにも多いものだろうか、と驚きました。横たわり見上げた空は、自分から見える世界のすべてである。自分が宇宙空間に投げ出されたような錯覚すら覚えました。そして、背中に大地が密着しているということは、自分がこの地球をひとり背負って、宇宙と向き合っているような気にさえなったのです。
 
アブラムが星を見上げた環境は、もしかするとこれに似ていたかもしれない、と思います。見渡す限り平原だったのか、遠くに山並みが見えていたのか、土地感覚は分かりませんが、闇の中に星々が無数に浮かんでいたのではないかと思います。数えることなどできません。しかしその数ほどの子孫が与えられるのだ、と神は告げました。アブラムは、まだ自分の子ひとりいないままに、それを信じたのだ、というのです。だから、それが救いであった、というのは確かにそうなのだろうと思います。
 
◆主の名を信じる
 
あの闇の中に、自分が吸い込まれていくような感覚を、アブラムも感じたでしょうか。自分はなんとちっぽけな存在なのだ、と思い知らされたかもしれません。この世界を創造した主なる神は、どんなにか偉大で、すべてを凌駕していることか、と思ったのではないでしょうか。それに対して自分はなんと小さいのか。
 
7:主は言われた。「私はこの地をあなたに与えて、それを継がせるために、あなたをカルデアのウルから連れ出した主である。」
 
この地はあなたのもの。あなたの子孫がそれを受け継ぐ。神の力強い約束が与えられました。遠い異国の地から、あなたを連れ出したのだ、とも言います。この記事を読む私もまた、連れ出されたのだ、という実感をもちます。神の声が呼びかけ、それを聞くことによって、立ち上がらされ、導かれ、ここまで来ました。いまがその道のどういうところなのか、それは定かではありません。しかし、神が呼んだのです。神が逃れる道を備え、連れて来たのです。
 
ここまで、神が導いてきてくれました。それを確かなことと打ち明けることを、なさいますか。「証し」と言います。神が自分にどれほどのことをしてきたか、それを証言するのです。アブラムには、それを神自らが宣言しました。アブラム自身からそれを神に告白したのではありません。しかし神の方から、「私は……主である」と呼びかけました。
 
「主である」、それは神の名です。普通名詞ならば、「主人」というほどの意味でしょう。しかしこれが固有名詞となるとき、神の「名」として目の前に立ち現れます。主の名が宣言されることで、私はその絶大な力の前に立ちすくんでしまいます。「アブラムは主を信じた」というのですが、一面、それは「主の名を信じた」のようにも受け止められるだろうと思います。
 
新約聖書ヨハネの手紙第一の終わりのところでは、このように書かれています。
 
神の子の名を信じるあなたがたに、これらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを知ってほしいからです。(ヨハネ一5:13)
 
「名は体を表す」という知恵もありますが、正に神の名とは、神ご自身であることをも含んでいることでありましょう。するとこれは、神の子がイエス・キリストであるならば、イエス・キリストの名を、つまりイエス・キリストを実体的に信じる者には、永遠の命が与えられている、というようにも聞こえます。
 
神において、言葉はただの言葉ではなく、現実存在となります。神において、言葉とは実在するものです。神の名も、ただの言葉ではありません。神の言葉が実現する、というところまで含み持った形でこそ、神の名を信じたと言えるのです。アブラムは、たぶんその域にいたのです。神にはそれが、分かっていたのです。
 
◆再び、信仰による義
 
初めのうちに、「義とされる」という表現の意味を、「救われる」と理解して概ね間違いではない、と申しました。多少雑な理解ですが、それはそれでよいことにしておきます。ところがこのアブラムの記事を載せたローマ書4章のパウロの言葉の中に、気がかりな表現があることに気がつきました。
 
5:しかし、不敬虔な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
 
聖書協会共同訳では「不敬虔な者を」と改められましたが、そのひとつ前の新共同訳では「不信心な者を」となっていました。つまり、神は「不信心な者を義とされる方」であるというのです。
 
恐らく脈絡からすると、次の節などを加味して考えて、何かしら立派な行いをしたというのではないけれども、神は救いますよ、そうやって救われた者は幸せですね、というような流れで書かれてあるのだろうと思います。しかし、この直前には、あの「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」、つまり信じたことで救われた、という意味の言葉が置かれているものですが、それに続けて「不信心な者」が救われるというのは、いささか奇妙な聞こえ方をすることになります。
 
もしもここだけ切り取ったならば、まるで信仰をもたない者が救われる、のようにひねり出すことも可能になるかもしれず、だから神は万人を救うのだ、と神と極論する人が現れてもおかしくはありません。でも、それはどうも筋が違うし、第一聖書全体が言おうとしていることと齟齬が生じることになりはしないでしょうか。
 
つまりここでは、働きがなくても、その信仰が義と認められる、とパウロは言っているに過ぎません。そうすると、これはまるで私自身のことが言われているように思えてしまいます。私は神を知っているから救われて当たり前だが、不信心なすべての人も神は救うのだよ、というような高みに立った見方をすることは、私には到底できません。私こそ、その「働きがない者」の代表です。適切なことを行うこともできません。燃えるような伝道をしたわけでもないし、立派な行いで人を助けたわけでもありません。何の働きもないのです。それでも、神は声をかけてくださったのです。私と出会ってくださったのです。
 
いったい、私は何をしたというのでしょう。何もしていません。何の善き働きも、行いも、していないのです。
 
教会のために何も奉仕ができない、と気にしている人がいます。奉仕を生き生きとしている人が羨ましい、という目で見ています。でも、神はそうした人を蔑ろにするようなことは、決してなさらない。パウロが指摘していることは、そういうふうに受け止めることができようかと思うのです。
 
◆自分が何をしたというのか
 
アブラハムは、自分の感情を表に出さず冷静な一面がある、と先に触れました。それが、淡々と行動する信仰者に相応しい、という見え方がするようにご説明しました。けれども、そればかりではないような気がします。もしアブラハムが、至る所で感情を剥き出しにしていたら、私たちは創世記をどのように読んだことでしょう。もし憤ったエサウのように、出し抜く魂胆ありありだったヤコブのように、ある意味で英雄譚のように物語の中で暴れていたら、アブラハムを。私たちはどのように見ていたでしょうか。
 
静かに涙する人を見て、私たちは胸を締め付けられるような思いを懐きます。そこに感情を移入してしまうのです。泣き喚くひとを間にあたりにすると、私たちは、どこか引いてしまうことはないでしょうか。泣き叫ぶ人に私たちは感情を入れることが難しくなることがあるのは確かです。
 
アブラハムが冷静だからこそ、私たちは、アブラハムに自分の感情を注ぎ入れることができるのではないかと思うのです。自分もそのアブラハムの立場に立たされて、決断を迫られる思いになれるのだと思うのです。おまえは信じるのか、と問われることになるわけです。
 
神は、ここでアブラムに直接この言葉を投げかけませんが、私はそのアブラムの場に置かれたならば、神に問われる気持ちにきっとなることでしょう。「おまえはこれを信じるか」と。そして「信じて行動できるか」と言われているように感じることでしょう。
 
自分には子がいないので報いが残らない。神の約束に対して、一度は背を向けたアブラムでした。しかし、神はそのアブラムに星を見せました。この星の数ほどの子孫が与えられる。そう約束をしたのです。
 
アブラムは、何から何まで備えてきた神の恵みを覚えたのではないかと思います。そして、それに値するようなことを、自分が何かしたのだろうか、と案じただろうと思います。
 
いったい自分が何をしたというのか。
 
突然、「あなたはラッキーです。おめでとうございます」などと街で言われたら、絶対怪しみます。どんなよいことをしたというので、これほどに神が特別によいものを与えてくれるというのか。信じられないような思いだったかもしれません。自分は何も立派なことをしていないではないか。それは作った謙虚ではありません。アブラムは、やはり純粋であったのです。
 
自分が何をしたというのか。
 
いや、自分は何もしていない。何かをしたなどとは決していない。ただただ無力な、ちっぽけなひとりの人間に過ぎない、ということを思い知らされるばかりだったことでしょう。
 
◆再び、自分が何をしたというのか
 
しかし、「自分は神を信じていなかったのではないか」と先ほど省みたのではないか、というように私は想像してみました。報いなどもらっても仕方がない、子がいないのだから、と神の「報い」という言葉を拒んだのです。
 
自分が何をしたというのか。
 
実はこの問いには、別の含みがあるのです。お気づきの方、あるいは最初からその意味で捉えていた方もいらっしゃることでしょう。そこに、自分は悪いことをしていない、自分は罪など犯していない、という返答が隠れている場合があるとは思いませんか。
 
振り返れば罪を犯している自身に気づく。自分には罪があることを覚え、戦慄が走る。こちらの意識のほうが、より重要ではないかと私は考えます。自分は何もしていませんよ、というような、余裕のある態度でいる者が、神の恵みを体験するはずがないのです。人の上に立って話をすることが快感だというような態度で、聖書を語るようなことをすることは、たいへんな罪なのです。
 
自分が何をしたというのか、正義ぶって自分の非を、自分の罪を認めようとしない態度が、私たちには、いえ、私にはあったことを迫られます。アブラムの出来事の中には、これが見られません。だから信仰の父と呼ばれて然るべき人となり得たのです。
 
けれども、私はもう少し追及します。アブラムは本当に、ただ「信じた」という営みしかなかったのか。アブラム自身は、主に外に出されて星を見上げたとき、「主なる神よ。私に何をくださるというのですか」と、主の言葉を否定した自分を意識したのではなかったのでしょうか。自分は主を信じていなかった、と痛感したのではないでしょうか。自分は不敬虔、不信心だと畏れたのではないでしょうか。
 
パウロが奇遇にも、「不敬虔な者」と挙げたそのことを、現場のアブラムは感じていたのではないか、と私は想像するのです。だからこのとき、「不敬虔な者を義とする」という出来事が、起こっていたのだ、と。
 
アブラムは星空を見上げました。星は輝いています。しかし夜空全体の面積からすると、星の輝きは点の集まりに過ぎません。ごくわずかな光です。殆どは暗黒です。その闇を見上げたとき、アブラムは、自分の中の闇が、まるで吸い込まれていくような体験をしたのではないでしょうか。無責任ですが、そう想像してみました。それは、私がそのような経験をしたからです。私に引き寄せるなど、たぶん高慢ちきなことなのでしょうけれど、私の中に起きた出来事をお伝えするのが、こうしたメッセージでの務めであると思うのです。
 
自分が何をしたというのか。
 
そう問われたら、応えます。悪しきことをしました。しかしまた、神を見上げ、できることを精一杯しました。そんなふうに言えたら、きっと素敵でしょう。私の理想というのは、その程度のことです。自分に与えられた神からの言葉を、精一杯伝えることができたならば。



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