神の人事異動

2023年2月4日

暦の上では、春である。立春を過ぎると、古人はもう春だと理解し、まだ冷たい風や凍てつく土しか感覚できなくても、必ず春がくる、否もう来ている、と言って前向きになっていたのだろう。
 
春は、異動の季節でもある。年度末から年度初めへと動き、学生ならずとも、新たな環境に身を置くことになる人が数多く現われる。
 
京都の母教会の牧師は、京都という地で、その異動を痛みを覚えて覚っていた。学生である。いまよりは、もっと学生が教会にいた。京都市内は、大学がたくさんある。しかも、京都からではなく、各地域から京都に上ってくる。
 
京都に暮らすティーンエイジャーたちは、「近くて遠い京大」とよく言っていた。また、京都の大学へ進学するのが難しくて別の地の大学に行くことになったら、「都落ち」と呼んでいた。
 
他方、京都の教会には、他の地域で信仰を与えられた若者が集まっていた。それで教会には活気があったのだが、他面、卒業と共に京都を去るという場合が多かった。教会は、数年間大いに活躍してもらった学生を、間もなく手放さなければならない運命にあった。
 
正に「異動」である。育った学生が、また新たな地で信仰を育み、また伝える者として遣わされていく。牧師はこれをよく、「神の人事異動」と呼んでいた。至言である。
 
他の多くの教会でも、異動があるだろう。特に牧師の異動というのは、教会にとって大きな意味がある。また、牧師の交替は教会の危機である、と称する人もいる。これもまた至言である。
 
会社が転勤を命ずるように、教団組織が牧師の異動を決める、というシステムもある。だが、教団によっては、そのようなシステムのないところもある。単立教会の場合は、基本的にないのだろうが、グループを作っている場合には、動くことがあるかもしれない。そのとき、何をきっかけにして動くことになるのだろうか。
 
当然、神の呼び声によるもの、と私は思っていた。事実、その牧師自身の祈りと願いの中で、道が拓かれた、という場合も見た。神の導きでいまの教会を離れる、という捉え方をしているのだったし、それが聖書の御言葉に裏打ちされたものだとして証しすることもあった。
 
もちろん、内心は、教会の中での自分の居場所に疑問をもつ場合もあったかもしれないし、教会員とのトラブルから離れようと決意するという事例もあったことだろう。また、自分がこの教会に残ることは、この教会にとってよくないと感じた故に、という信仰もあったかもしれないし、神の宣教のために自分がここにいてはならない、あるいは他のあの場所にいるように呼ばれた、とする信仰があったかもしれない。
 
ひとそれぞれ背景は違っていてもよい。だが、聖書や神に理由をもたない、というケースもあって、私は仰天したことがある。プライバシーもあるだろうから詳述は避けるが、自分に金ができたから、金を出せない教会に行く、というようなものだった。何らかの事情や外からの指示があったわけではなく、突如、辞任すると言い始めた人だった。
 
殊勝な心がけではある。もし私だったら、とても真似はできない。無牧の教会が加速度的に増えている中で、立派な選択であると言えるのかもしれない。だが、どんな聖書の言葉に導かれてのことだったのだろうか、と尋ねたところ、そういうものは何もない、という返事だった。私はそれを耳にして、正直、呆れた。動機は金でしかないのか。聖書の言葉や神との祈りの中で、その道が与えられた、というようなものが全く介在しない、ドライな計算だった。それは(この呼び方が適切であるのかどうかはさておき)サラリーマンのただの職業選択のにおいしか感じさせない言い方だった。
 
その人にとり、「牧師」は要するに職業であったのだ。あまり聞いたことはなかったが、なるほどその「説教」は、職業的なものである、と言われればそうだった。社会を批判し、聖書を型どおり説明した。しかし、霊的なものをそこに感じたことはなかった。魂には届かなかった。職業的な営みを、失敗しないように遂行していた、とは言えるだろう。私が個人的に攻撃されたときのことも、そうした路線で説明ができるような気がする。
 
これは、少なくとも「神の人事異動」ではない。人間の側からも、神を必要としない動きであったのだし、神との関係の中でなされた出来事でもない。
 
しかし、私たちは、自身思いも寄らないことに巻き込まれ、否応なく運命に流されるがごとく、どこかに動くことがある。動かされるということがある。預言者たちも、有無を言わせず、ある環境へと閉じ込められ、追い込まれることがあったように、聖書を見ると感じる。それもまた、「神の人事異動」であったのだろう。
 
この春も、そうした「神の人事異動」があるかもしれない。だが、異動した後の教会について悲惨な情況になっていくことが、火を見るより明らかであるとき、切ないものを覚える。出て行く牧師がいたことが唯一その教会に留まる理由であった、というような意味で苦しんでいる信徒がいるなどということに、後継者が全く気づこうともしないような場合すらあるだろう。否、気づけないようなありえない後継者であるとすれば、それは決して「神の人事異動」などではない。
 
神の不在なる教会は、もはや教会ではなくなってしまうのである。



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