経験と淡々とした日常

2023年1月30日

教会に棺が入れられ、共に礼拝をする。もちろん、そこに置かれたのは魂そのものではないし、またその遺体を礼拝しようとするのではない。だが、礼拝者は厳粛な思いで、その魂がそこにあるかのように、共に礼拝をするという心地でいることは、尊いものであろう。
 
そのようなことが、二週連続であるというのは、高齢化の先頭に立っている「教会」の姿の象徴であるのかもしれない。
 
ただ、今週の方は、教会員ではない。それどころか、洗礼を受けた方でもない。教会員の近い親族の方であるという。しかしその後の説明の中で、教会は、時によっては信仰の有無に拘わらず、葬儀を担うことができる、と宣言された。仏寺もまた、それは多くの場合当然のように実行していることではないか。人のニーズに合うように、という思いもあるし、教会が祈りと賛美を以て故人の死を悼むということが必要だと考える理由があるのだ、ということである。
 
その死の故であるかどうかは知らないが、アブラハムの生涯を追う連続説教の中で、今回はサラの死と葬儀の場面から説教された。
 
アブラハムの生涯は、そもそも淡々と語られている。この「淡々と」は幾度となく繰り返され、今日の説教のテーマであった。そもそも創世記のアブラハムは、感情というものをもっていないのではないか、と思われるほどに、淡白である。これを私の捉え方では、アブラハムに感情をたぎらせると、読者はそこから却って距離を置いてしまったことだろう、ということにしていた。つまり「引いて」しまうのである。説教者は、アブラハムのことをいろいろと説明するのではなく、読者を引き込んで「対話」に誘っている効果があるのではないか、というような話し方をしていた。言うなれば、ナラティブに告げることで終わりにせず、神と読者とが向き合ってディアロゴスの場を設ける効果があった、ということなのかもしれない。
 
アブラハムは、サラの死に際し、自らの終末をも見通していく。それは、自分の未来に夢膨らませるような営みではない。自分の過去と向き合うようになったということであり、過去の責を負うことへと視線をシフトしていることであるのだろう。
 
寄留者であったアブラハムは、サラを葬るために、その土地を必要とした。土地の所有者であるヘトの人々と、その地を得たい旨、交渉する。その交渉は、私たちから見て甚だ不自然である。ただでどうぞと言うヘト人に対して、アブラハムは相当額を言ってくれ、と返す。これを受けてヘト人は、かなりの高額を求めるのである。説教者は、一旦高値をふっかけておいて、それにアブラハムが本当に求める値を答え、やがて互いに落ち着くところへ落ち着くようにするという商売のやり方を説明した。なるほどそうかもしれない。
 
私は、ただの思いつきではあるが、前半は、当時の普通の商習慣でそのように交わすものであったのではないか、と想像している。ふっかける云々はともかくとして、当然普通の交渉であったに違いない、と。ここで別段、アブラハムだから特別なやりとりがなされているわけではないのだと私は考える。ただ、ここでアブラハムは、相手の言い分に抵抗せず、その額をそのまま受け容れた。相手も戸惑ったのではないだろうか。
 
ところでここで説教者は、重要な視点を提供する。この交渉どころに、神が全く現われていないのだ、という点である。アブラハムが神に何かを祈って事を決めた、という様子もない。神が登場しないのである。
 
アブラハムは悲しみのどん底であった。そこで何故神に祈らないのだろう。説教者はまた、印象的な例を挙げる。眼鏡が見つからなくて探していた、見つからないので神に祈った、すると見つかった、神よ、ハレルヤ、感謝します――いったい、神に物を探させているのだろうか、と。
 
今日開いた聖書箇所にはこれこれとあります、私たちもそのようにしましょう、神は共にいてくださいます、ハレルヤ。こんなことを毎回繰り返して話すことしかできない者がある。聖書の中で神や信仰者が言ったことやしたことをお手本として掲げ、これに倣いましょう、というかけ声の、どこが説教なのだろうか。この人が、神との対話をしたことがあるとは思えない。つまりは人間の側からしか聖書を見ることしかできないのである。聖書にある記事を人間世界という遠くから眺め、それをお手本として掲げれば説教になると勘違いしているのである。神との出会い、そこから自分が変えられたこと、そのような証しができない説教者というのは、ありえないのである。
 
神との対話、これをアブラハムはこれまでたっぷり経験していた。しかし、我が半身とも言うべき妻の死に遭い、アブラハムはその人生の大切な出来事の中で、神に祈り、神の声を聞くということを求めていなかった。それは人間の側から眺めていることなのだろうか。いや、そのようなことはない。配偶者を喪った男性は急に弱ることがあるというが、アブラハムの陥った事態も、察して余りある。その悲しみの底において、アブラハムは神に縋るよりも、自分で立ち上がることを必要としていたはずである。説教者の着目点は、ここに集結した。アブラハムは自ら立ち上がり、社会的に必要な交渉を成し遂げるなど、なすべきことを淡々と行った。日常生活を淡々と続けた。「淡々と」である。
 
そのときアブラハムは、神を忘れていただろうか。それは恐らくあり得ない。神の祝福の約束を忘れたことはあるまい。しかし、安易に、神は祝福してくださる、というようにわざわざ強調する必要はなかった。アブラハムは、常に神と共にあった。否、神がアブラハムと共にいた。自分に言い聞かせるように、それを繰り返す必要などなかった。それを当然の前提として、ただ自分がなすべきことを淡々と続け、生きたのである。
 
「生きる」、それはありがたいことだが、死んだ人は「どう生きるか」に悩むことはない。しかし「生きている」人は、「どう生きるか」に迷い、悩むことがあるだろう。「生きている者の神」というのはよく言ったものである。思い惑い、時に苦しみ、選択に迫られ、どうすべきか思案するのが「生きている者」であり、そのような者にとり、神は確かにそこにいて、神との関係の中にあるという形で、「命」を注がれていることになるであろう。
 
その「生きる」は、英語ならば「生活する」と同じ語で表せる。それはまた、「生命」をも表す言葉である。つまり漢字ならば「生」という文字でイメージさせるものをつなぐものとなつている。淡々と生活する、それは淡々と生きることであり、淡々と神の命の中にあることである、というようには考えられないだろうか。
 
それは、日常の中に常に神を呼び出せ、ということではない。すでに神は、キリスト者には出会っている。十字架のキリストと、間違いなく出会っている。復活のキリストと、出会っていないはずがない。イエスは、君たちをひとりにはさせない、と言い残していた。聖霊なる神が共にいる。それはある意味で、イエスが共にいる、ということにもなる。神が共にいる、ということでもあるし、だからこその「インマヌエル」である。
 
このイエス・キリストが、私に命を与えたではないか。それ以上に神に自分の欲求するものを求めるということが適切であるのかどうか。もう神を知っている。神と深い交わりを経験した。この「経験」という言葉も、説教者は森有正に沿う場合には強調していたが、それは神を「知る」こと、つまり神と「出会う」ことや「交わる」こととひとつにつながっていた。この「経験」をバックボーンとして、私たちは「淡々と」今日を生きることができる。生きることが許されている。そして、そのような私のことを、神は知ってくれている。私の悲しみも、苦しみも、すべて。



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