【メッセージ】終わりの日のために

2023年1月29日

(ヨハネ6:28-40, 出エジプト16:31)

私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。(ヨハネ6:39)
 
◆パンについて
 
「ごはんができたよ」。日本人だったら「ごはん」という言葉が相応しいでしょう。それは、米の飯を意味する言葉ですが、同時に広く「食べるもの一般」を指すときに使うことができます。パンでも麺類でも「ごはん」と呼ぶことがありますね。聖書の書かれた地域の文化では、「パン」がそれに当たります。主食と言えるであろうパンが、広く食べるものを示す言葉として通用するのです。
 
いわゆる「最後の晩餐」では、文字通りのパンが用いられて有名です。何千人という人々にパンを裂いて渡したという記事においても、確かにパンが登場したと思われます。ところがヨハネによる福音書では、特にその「パン」について長く触れた箇所があります。恐らく、これは文字通りのパンだけではない意味であろうかと思われます。
 
その発端は、やはり多くの人にパンを与えたことでした。ガリラヤ湖の向こう岸まで群衆が追ってきます。病人に対するイエスの奇蹟を見たからだと福音書は記します。イエスは小高い山に登り、群衆の食事の心配をします。しかしそれは、イエスの弟子たちの反応をテストするためでした。するとアンデレが、少年がパン5つと魚2匹を持っていることをイエスに知らせますが、これではどうにもならない、と嘆きます。
 
イエスはそれを見てよしとしたのか、群衆を座らせます。五千人いた、とヨハネは記します。
 
そこで、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。(11)
 
人々は、イエスを預言者だと驚きますが、イエスは、何もこの世の王になるためにしたのではないし、人々が半ば暴力的に王にしようと動き出すのを恐れて、舟に乗って群衆から遠ざかります。しかし、群衆はイエスを追ってきます。
 
イエスは、何故彼らが追ってきたかを指摘します。先ほどは病人の癒しのためだと言いましたが、今度は、パンのためだ、と突きつけます。この人は食べさせてくれる、つまり政治経済の担い手だ、という捉え方を彼らはしたのです。このように政治家として見られることは、イエスがいまの権力者の敵になることになります。イエスはそれを拒むしかありません。
 
◆イスラエルのマナ
 
私たちは、パンについていま聖書の場面を受け取っています。パンについて知るためには、イスラエルの歴史、つまり旧約の歴史の中のパンについて、少し思い起こしておく必要があるでしょう。それは、出エジプトの出来事です。
 
イスラエル民族の祖先は、落ち着いた地域での飢饉のために、族長ヤコブとその子ヨセフという時代に、エジプトに身を寄せることとなりました。ヨセフはエジプトの権力者となったので、その一家は大切に扱われたのですが、何百年も経つと、イスラエル人はエジプトで肉体労働者としてこき使われるだけの存在になっていました。そこへ登場したモーセがイスラエル人のリーダーとなり、エジプトの王を神の力でねじ伏せて、エジプトを出てカナンの地、つまりイスラエルの土地に出て行くことになります。これを「出エジプト」と言います。
 
目的地にたどり着くまでにはなんと40年を数えます。テントを張ってしばらく住んではまた移動する、ということを繰り返したようです。そのとき最大の問題は、食糧問題でした。水がない、食べ物がない、その都度モーセが不満の矢面に立ちますが、このとき神が食糧として与えてくれたのが、「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物でした。空から降り、落ちているのを人々がかき集めると、食べることができるというのです。
 
イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それはコリアンダーの種のようで、白く、蜜の入った薄焼きパンのような味がした。(出エジプト16:31)
 
森永製菓の製品で、「マンナ」というのがあります。1930年当時、離乳期の子に安心して与えられるお菓子が殆どありませんでした。世界恐慌の不況下、栄養価の高いビスケットを食べさせることができたら、という願いで開発された製品でした。創業者の森永太一郎氏は佐賀で生まれ、苦労の中アメリカに渡り、キリスト教信仰を与えられます。「マンナ」の名は、正にこの出エジプトの「マナ」から付けられたのです。
 
「マナ」というヘブライ語は、「これは何だろう」と人々が手に取ったために、その発音が名前になったのだ、という説があります。本当にそうであるのかどうかは別として、イスラエルの何十万という数の民が、40年間の長旅を生きるのを支えたとされる食糧です。これを、手ずから生産したというのではなく、それが与えられたこと、特に「天から降ってきた」というところに、私たちは注目する必要があります。
 
◆命のパン
 
イエスの許に押し寄せた群衆なる人々に対して、イエスは、パンが欲しくて追ってきたのだろう、と指摘します。そして「永遠の命に至る食べ物」を求めるように促します。人々は抗わず、イエスを信じる道を尋ねました。そのための「しるし」が欲しい、と言うのです。
 
「しるし」はヨハネによる福音書での用法が多く、一つの鍵になる言葉です。細かく検討すると複雑になるので、いまは単純化しておきます。「イエスが救い主であることを証拠立てる奇蹟」とでも言っておきましょう。群衆は、イスラエルの先祖が出エジプトでマナを食べたことを想起します。マナについて人々は、「天からのパン」だという認識をしていました。
 
32:すると、イエスは言われた。「よくよく言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではない。私の父が天からのまことのパンをお与えになる。 33:神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
 
神のパンは、「天から降って」来るものだ、とイエスは応えました。そして、自分が「命のパン」であることを宣言した後に、次のように告げます。
 
38:私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。
 
マナが天から降って来たように、イエスも天から降って来たのだ、と言ったのです。イエスは自らをマナと同一視していることになります。だから「命のパン」であるということなのです。
 
この話は、やがて「イエスを食べる」という表現になってゆき、そのために周囲の人々が勘違いをします。あるいは、キリスト教そのものが、「人肉を食べる」という奇妙な目で見られるようになっていく歴史をも招きました。新興宗教だとそうなることはここにいた人々も、イエスの許から離れていく、という筋立てになっています。
 
◆終わりの日の復活
 
パンそのものから、少し視点をずらしていきましょう。イエスがパンとして天から降りてきたのは、神から遣わされたのだ、と言った点に注目します。
 
39:私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。
 
もちろん、その場にいた人々からすれば、神からの遣いであるということ自体が、驚異的な宣言に受け取られたに違いありません。しかしそれを認めるかどうかは、イエスが実際何をしてくれるか、によることだと思われます。イエスが遣わされた目的は、「復活させること」にあるのだ、と言うのです。しかも、「私のもとに来る人を、私は決して追い出さない」(37)とも言いますから、イエスのもとに来るかどうか、招いていることも明白です。
 
イエスに招かれて、イエスのもとに来るならば、一人残らず「復活させる」というのです。見誤らないようにしましょう。このようなことを言われると、「それは真実か」「証明できるのか」といった反応が現れることがあります。確かにこの現場においても、それを信じられなかったから人々が離れて行った経緯があるわけですが、近代科学や文献批判といったものの見方にどっぷりと浸かったいまの私たちだと、なおさら、こんなイエスの言葉に素直に従うものではないのではないかと懸念されます。
 
他方、子どもにこうした問いかけをすると、素直に信じるということがあるかもしれません。子どものようにならなければ、神の国に入ることはできない、というふうにもイエスは別のところで言っていましたから、どうでしょうか、私たちはいまここで、素直に受け止めてもう少し進んでみませんか。「終わりの日」とは何か、などと理屈で理解しようとしないで、神はいま私に向けて、耳寄りなニュースを囁いたのだ、と受け止めてみるのです。
 
「私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させる」というイエスの言葉を、信頼できる約束の言葉として握りしめると、間違いなく「信徒」となるのでしょうが、直ちにそこまでは求めません。「それで?」でもよいのです。私の側を主語とするならば、「イエスを信じるならば、終わりの日に復活する」と言い換えても構いません。ここから、もうしばらく聖書に向き合ってみましょう。
 
◆永遠とは今なのか
 
40:私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。
 
「私の父」とは、いわゆる神のことですから、神はあなたに向けて、このような理由で、復活を約束していたことになります。信じるならば、「永遠の命」を得る事になる、というのです。それが、「終わりの日に復活させる」ということだ、と言っているように聞こえます。
 
ヨハネによる福音書では、この「永遠の命」というものが大きな意義をもち、言うなれば中核にそれがある、と言ってもよいだろうと思います。「小聖書」とさえ呼ばれる短い一句が、ヨハネによる福音書に備わっており、聖書が私たちに伝えているのはこの福音である、とも見られています。それは、以前にもご紹介しました、次の箇所です。
 
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(3:16)
 
言っているのは同じことです。イエスを信じるならば、「永遠の命」が与えられる、ということです。イエスを信じることが、「永遠の命」の入口です。入口がドアであるならば、そのドアの形は、恐らく十字架の形をしている、とでも喩えればよいでしょうか。十字架の死の向こうにこそ、「永遠の命」が待ち受けていることになります。
 
「永遠の命」とは何でしょう。永遠に生き続けるということでしょうか。まさか、そうではないでしょう。すると、理屈をこねて、次のように言う人がいます。つまり、「イメージするような『永遠』などは存在しないのだ。信じたならば、いまここで『永遠』を感じることがある。いまこの瞬間が『永遠』であるような気分を味わうのだ。だから、信じたいま満たされたその思いが与えられることを『永遠』と呼んでいるのである」と。これは、如何にも理性的に考察した「永遠」の定義です。いまこの瞬間、永遠を感じさえすればいい、そのような至福の瞬間が与えられることを以て、「永遠の命」と呼ぶのだ、というわけです。
 
ところが「永遠の命」というとき、「永遠の」とは、確かに時間的なものを感じさせる言葉が使われています。さらに、有名なことに、この「命」という言葉は、特にヨハネによる福音書は、特徴ある使い方をしていると言われており、ギリシア語で「ゾーエー」という語を用いています。同じように「命」を著す「ビオス」という語を使っては指さないでいるというのです。
 
ここでは、神学者が学問的に研究するようなことはできません。第一、聖書も必ずしも数学の公式のようには記されていませんから、明確な定義をしてそこから全部判断するということなど難しいものです。ただ、この語はやはり一定の傾向をもっているのであって、もうしばらく立ち止まってみることにします。
 
「ゾーエー」は「zoo」へと受け継がれて、動物園を意味するようにもなりましたが、そうすると、それは動物的な生命を指すことのできるものであったことになります。事実、ギリシア哲学ではその傾向があると考えられます。しかし、動物的な生命が低次元というものではなく、永遠というものを時間的に続くように捉えるならば、むしろこの「ゾーエー」の方こそ相応しかったと思われます。それに対して「ビオス」の方は、一時的に人間理性をもつような命として現れてくることが多いようです。するとこちらなら、いまこの瞬間を永遠と捉える場合の命に適したいたことでしょう。
 
何かしら、命をもつものの底流に続いているもの、そこに永遠性を見なして、「永遠の命」と呼んだのかもしれないと思います。それは確かに、「死すべきもの」としての人間のあり方とは違うものであったことでしょう。生物学的な意味での命とは違うにしても、永遠に貫かれている何か、そこに触れること、属すること、そこに何かしら「永遠の命」が示すものが関わるのではないか、というわけです。
 
◆チケットの比喩
 
なんだかややこしい話になりました。受け容れたいのは、「永遠」というものが、喩えや感情ではない、ということです。私たちのイメージ通りではないことでしょうが、神は確かな「永遠」を用意してくださっているに違いない、ということです。そして、その「永遠」が与えられるのは、イエスを信じること、つまりイエスの言葉を信じ、イエスの約束を信じることに結びつけられていることを、私たちはむしろ気にするべきです。
 
37:父が私にお与えになる人は皆、私のもとに来る。私のもとに来る人を、私は決して追い出さない。
 
イエスのもとに来る。そのような人は、一人も失われることがないというのです。終わりの日に復活させられるというのです。そして、永遠の命を与えられるというのです。
 
比喩というものは、すべて完全に事態を表すものではありません。不完全ではありますが、何かしらある側面を理解させてくれるものが、比喩というものです。私は時折、神の約束について、「チケット」というものになぞらえて考えます。神と人との契約について、と呼んでもよいでしょう。
 
コンサートのチケットを手にしたとしましょう。それは、コンサート当日に、会場に入る権利をもつものです。いわば「証書」です。入場が約束されています。ただ、まだコンサート会場にすでにいまいるというわけではありません。コンサートの内容そのものは、まだ知りません。およそこういうものだろう、という予想をすることは自由ですが、思ったとおりに舞台が進むわけではありません。
 
キリストを信じた者とは、このチケットを手にした者であるように思うのです。「終わりの日」に、神の国に入るチケットが与えられています。ちゃんと自分の席が約束されています。当日、そのチケットを見せれば、会場に入ることができ、自分の席に座り、コンサートを楽しむことができます。
 
あなたがたも、キリストにあって、真理の言葉、あなたがたの救いの福音を聞き、それを信じ、約束された聖霊によって証印を受けたのです。(エフェソ1:13)
 
「証印を受け」るというのが、このチケットをもらったことと比せられるだろうと思います。「証印」とはまさにそういう意味であり、別の感覚で捉えるならば、これは手付金を払ったということです。チケット代を払ったということです。
 
しかし誰が払ったのでしょう。私が少々善行を為したにしても、それで買えるほどの額ではありません。イエスの譬では、一万タラントンという、いまなら何千億円にも相当する額を借金したなどという、現実感のない話すらあるほどです。
 
そうです。これを支払ったのが、イエス・キリストである、というのが、キリスト教の核心です。私たちは只でそのチケットを与えられました。キリストが、私たちのためにすべて支払ったのです。神の子でありながらその命と引き換えに支払ったのが、イエスの十字架の出来事であり、その命がただの犠牲ではなく、チケットが有効であることを示したのが、イエスの復活の出来事だ、というわけです。
 
◆信じる者
 
ただ、このチケットには、私たちの社会でのチケットとは、大いに違う点があります。コンサートの日時が印刷されていないのです。どうやら、突如呼び出されるらしいのです。宴があるから、と突然招待する譬をイエスは語ったことがありました。
 
16:そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、
17:宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう準備ができましたので、お出でください』と言わせた。
18:ところが、皆、一様に断り始めた。(ルカ14:16-18)
 
この後、主人は当然怒ります。片っ端からその辺にいる、虐げられていた人々をはじめとして人々を招き、最初の招待者は、もう誰ひとり招かれることはなかったというのです。
 
さあ、私たちはどうしましょう。このチケットで招待されている宴会を、楽しみに待つでしょうか。それとも、こちらの都合ばかり優先して、神からの誘いを断るような真似をするのでしょうか。
 
39:私をお遣わしになった方の御心とは、私に与えてくださった人を、私が一人も失うことなく、終わりの日に復活させることである。
40:私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである。
 
この「終わりの日」については、私たち人間は計算が一切できません。兆しのようなものがある、とは言いますが、イエスが言うには、とにかく「目を覚まして」いるくらいしかできないのです。神にとってはどのようなカレンダーで、またどのような時間感覚の中で、それが準備されているのか、それさえも人間には分かりません。ただ私たちの感覚だけで、「いつ」ということが気になるのですが、全く分からないのです。
 
いつでしょうか。いまかもしれません。少し先かもしれません。ずっと先かもしれません。けれども私たちは、待つしかないのです。神がプレゼントしてくれたチケットを握りしめて、いつでもどうぞ、参ります、と待つだけです。どういう時間であるのかは知ることがなくても、一寸先を闇としてではなく、光として、キリスト者は待つことができます。待つことが許されています。
 
そう、私たちはただ、許されているだけです。チケットが与えられるとは言いましたが、それは私たちが、イエスの死によってこそそれが与えられるものだと知るからです。イエスの死が復活の命へと変えられたために、私たちにも命が与えられることとなりました。イエスの十字架の死が、私の命を永遠の国に招くためになされたことを知る時に、それは与えられます。
 
私こそ、私の罪のために死に相当するということを知った時に、私の罪を記した罪状書きが十字架に釘付けにされて、初めて無効となるのでした。そしてそれと引き換えに、チケットが引き渡されたのです。
 
この一連の出来事が、「私がイエスを信じる」という言葉の中に、詰まっています。「信じる」ということが大切なのは、その意味においてです。イエスを見上げましょう。そして祈りましょう。イエスを「信じる」者とさせてください、と。



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