証し

2023年1月29日

いま、たいへん気になっている本がある。『証し 日本のキリスト者』というものである。
 
著者はキリスト教の信徒ではない。ノンフィクション作家だ、と言ってもよいだろうか。キリスト者135人を取材し、その「証し」を集めた。教会関係者でもないし、出版社はKADOKAWAである。そこでキリスト教関係者も、あまり気づいていないように見える(もちろん紹介している人もいる)。
 
私は書店で実物を見、魅力を覚えた。妙にキリスト教出版社であったら、気取るところがあるかもしれない。しかし取材された牧師や教会役員、一般信徒たちが、どこか肩の力を抜いて語っているような気がしたのだ。
 
本は千頁を超えている。分厚い辞典のようである。これを家に招き入れると、文庫本10冊分くらいのスペースを占めそうである。ただでさえ本に埋もれている部屋に、この1冊はそうとう目立つ存在となりかねない。これは電子書籍で読むことにしよう、と思った。だが、すでに今月の書籍代は天井に届いている。来月までの我慢ということに決めた。
 
妻は、本の場所について、それはもう生理的に嫌がっている。本の話題自体避けようとする。が、妻も本そのものは好きなのだ。この「証し」という本に、関心を示した。
 
妻曰く、「教会の人の証しって聞いたことがないね。」
 
確かにそうだった。否、どの「教会」であるかが問題だ。母教会と呼ぶべき京都の教会では、かつて毎月第二主日に「伝道礼拝」と称して、新しい人を招くに相応しい礼拝を開くことにしていた。そしてそのプログラムに、必ず「証し」を入れた。
 
その「証し」は、自分が救われた証し、ということに定められていた。新しく教会に来た人が、一番関心のあるところであろう。何年かすると、一周する。それでもいい。同じ救いの証しをする。イエス・キリストとどのように出会ったのか、語るのだ。それは、いつどこででも救いについて、キリストについて語ることができるような、訓練になります、というのが牧師の説明であった。確かに、こうして語る経験をもっておけば、「いざ」という時に語る内容に困ることはない。
 
それに、教会員の一人ひとりが、どういうところから教会へと足を運ぶようになったのか、どんな信仰をもっているのか、互いに皆知り合っていた。これは、今にしておもえばなかなか喜ばしいことだった。その人が何を考えているのか、オープンにされていたからだ。妙な言い方だが、「どこの馬の骨か分からない」ような人と交わるばかりではなかったわけだ。
 
しかし、福岡に来て、そういう機会がない教会生活ばかりだった。確かに、洗礼を受けるとき、あるいは転入会のとき、そうした話をするし、聞く場面はある。だが、教派の関係であるのかもしれないが、洗礼のときに話すのはえてして「信仰告白」であって、「証し」ではないこともあった。するとどういうことが起こるかというと、カテキズム通りのことをただ読むような人も現れるのだ。そしてそれも構わないとするのだった。言うなれば、コピペでレポートを提出するようなものである。そして、その人が真実どのようなところから救われたか、ということは全く分からないのであった。
 
何かしら辛い経験があった。そのとき教会に行って、イエス・キリストを信じました。こうしたストーリーだけが語られても、その人がどういう信仰をもっているのかは分からない。だが、それが当たり前だった。まして、ずっと前から教会員である人は、その信仰告白というものすら、聞いたことがないという有様だった。
 
いつも教会に来る。にこにこ愛想もよい。奉仕もよくやっている。だが、その人の信仰については、何も知らない。その人が神とどのように結びついているのか、については隠されたままである。教会では礼拝後にその日の説教について話し合うようなこともなく、世間話しかしないから、どういう聖書の読み方をしているかについても、ブラックボックスでしかなかった。
 
ある教会では、毎年「文集」をこしらえていた。すると殆どの人が、何らかの文章を載せる。すると、救いの証しではないにしても、日常のことや社会的なことについても、その人の考え方や信仰というものが垣間見える。いや、堂々と信仰について語るという人もいた。これはよかった。
 
だが、それもない教会だと、本当に、ブラックボックスである。そこに果たして「信頼」がどれほどに置けるのだろうか。そこを信じるのが信仰ですよ、と言われるかもしれない。だがそれは違うと思う。それは神に対する信仰の姿勢である。互いの人間の交わりを、神を信じるように信じるというのは、無謀なことになりかねないと思う。
 
そのような教会では、そもそもイエス・キリストの救いというものを経験したことがないような人を「牧師」として招いているところもあるという。説教で何を話しているのか、だいたい想像がつく。それをまともに聞いている信徒もいないのであろうし、説教要旨など誰も読んでいないのだろう。信仰を育む意思がないのだとすると、その信徒の「信仰」というものも、たかが知れている、ということになるのかもしれない。
 
日本各地では、そういう心配など杞憂に過ぎないであろう。あの『証し』を読んで安心したいものである。



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