あなた宛の福音

2023年1月25日

⇒信仰経験とは、主の教えを理解することではなく、理解もできず共感もできぬ絶対に外部的な、絶対的に他者的なメッセージを「自分宛」だと直感し、そのことによってこの世界に「人間の理解も共感も絶した他者」のための空位を穿ったということなのである。僕はそう理解します。(p163)
 
内田樹氏が『日本霊性論』(NHK出版新書・2014)の中で述べていることを引用した。「空位」というのは、これに先立って考察したことに基づいている。いまはあまりそこに拘泥せずにお読み戴きたい。従って、前半にのみ注目したいと思う。
 
内田樹氏について、いまここでご紹介することは控えるが、『福音と世界』にレヴィナスの時間論を長期にわたり2021年まで連載していたこともあり、キリスト教や聖書についての理解も深い。
 
私が感銘を受けたのは、キリスト教の用語を使うことなく、信仰の核心に関わることについて、的を射た表現を与えてくれた点である。私はどうしても、聖書に関する言葉や、神学的な概念や表現を交えなければ、そうした事柄については述べることができなかった。しかし、いわば哲学的に、だが確実に、信仰、特に「福音」についてよい説明がなされているのを見て、どうしても黙っておくことができなくなった。
 
本書は、内田樹氏と、真宗の釈徹宗氏とが半々担当してできた本であり、その前半で、3日間の内田氏の集中講義内容がここに掲載されている。その最終日の終わりの方で、このことは語られた。
 
⇒雷鳴でも雲の柱でも燃える柴でも、何でもいい、それを「自分宛のメッセージだ」と直感した人が出現したその瞬間に、一神教信仰は生まれた。(p166)
 
最初のところは、モーセの出来事を踏まえているが、モーセにより確立されたと見た「一神教信仰」の源を、自分の外からの「自分宛」の呼びかけに見出している。聖書的に言うならば、ひとり神の声を聴くこと、のように捉えてもよいだろう。まさに自分に向けて、神が語りかけてくる。聖書の言葉が、他人事ではなく、自分に向けて発された、と自覚した人間において、信仰が成立するというわけである。
 
何かしら自分の外から、つまり超越的に、何か呼びかけるものがある。それをひとは感じることがあるとしよう。この講義の最初では、それについての悩みが挙げられていた。その呼びかけるものが、善いものなのか悪いものなのか、どうやって判断したらよいだろう、という悩みであった。
 
それはいまにして思えば、統一協会問題が明らかにした点であるといえよう。見えないものがあり、それがあなたにこのように影響しているよ、という声を、どこまで信頼できるのか。信頼してよいのか、よくないのか。その判定基準はあるのか。それは何か。それについて、内田氏は、いまここで答えを示そうとしているのである。
 
⇒その切迫するものがまっすぐあなたに向かっているなら、それが発するメッセージがあなた宛のものであるなら、それは受け入れてよい。メッセージがあなた宛でなければ聞き流す。もし「みなさん」というような不特定多数に向かって地引き網で引くよう名「数打ちゃ当たる」的なメッセージが来たとしたら、そんなものは相手にすることはありません。そのようなメッセージは実は発信者がいないからです。不特定多数に対して、誰でもいい誰かに対して、自分が何ものであるかを明かさないで告げられるメッセージは受信者も発信者もいないメッセージです。そのようなメッセージは受け取ってはいけません。(p168f)
 
もう拍手を贈りたいくらいの指摘である。しかし、内田氏本人の意図は、私の共感したものとは別のところにある。しかも、私自身もその標的になっているのだから、呑気に喜んでいる場合ではない。
 
⇒あなた宛のものであれば、それは「グッドニュース」そなわち福音であるのです。そう考えると、「非福音的なもの」とは何かがわかります。それは発信者も受信者もいないメッセージです。発信者を匿名にしてあきらかにせず、かつ受信者も不特定多数であるようなメッセージは本質的に非福音的です。(p169)
 
内田氏は、SNSやウェブサイトでの発言について、その匿名性を常に批判している。匿名性に隠れて他人を傷つけることが可能になったことについて、危惧と憤りを表しているのである。ここでも、そのことを言っているのに違いない。但し、そこまでもキリスト教思想を含めた形で話をしてきた関係もあって、「福音」という語を用いて、より一般的な意味に適用しようとしているのではないかと思われる。もちろん、よろしくない宗教勧誘などへの対処も含んでいるであろうことも予想されるし、単純に「よいニュース」かどうかの判定にも用いることが可能であるようにもなっていると捉えたい。
 
そのお陰で、この指摘は広く適用できるひとつの試金石となった。だから私は、私の関心事について適用してしまった、という具合である。そう、礼拝説教である。私がしきりに「命がない」とか「聖書講演会」とか呼んでいたものが、どうしてそのようであるのかが、誰にでも分かりやすい形で、ここに説明されていたのである。
 
その場合、発信者を匿名にしているというのは、要するに誰がそれを語っても同じであるということである。説教者自身が魂を振り絞って、「私は」と語ることのできない、いかにも客観的で正しいかのような聖書についての説明がそれである。そういう「メッセージ」は、受け取ってはならない。聞き流すしかない。不特定多数に対して、さも真理を語っているかのように話すのは、福音でも何でもない、とここで言われているとは思えないだろうか。
 
命ある説教というのは、説教者自身が、これはあなた宛の言葉だ、と超越的に、つまり神から与えられ、それを受けたところから始まる。そしてそれを、私は神から受けたのだ、という事実を胸に、そのことを会衆に向けて、伝わってほしい、と話すのである。そのとき、言葉遣いはどうか知れないが、「あなた宛なのです」という思いに溢れたメッセージが語られるはずである。
 
聴く側も、自分宛だ、と感じたときに、聖霊の出来事が起こる。そう、経験者は思い当たるであろう。礼拝説教が、「これは自分宛のメッセージだ」と思い、心が揺さぶられ、神に取り扱われ、そして神の前に出て、神への信仰を明らかにした、という経験があるであろう。
 
まさか、そういう経験もなしに、礼拝説教などをする者がいたら、これはとんでもないことである。「主の体をわきまえないで食べて飲む者は、自分に対する裁きを食べて飲むことになるのです」(コリント一11:29)とは、たんに聖餐のことを言っているのではないだろう。わきまえなしに神の言葉を語っている、などと詐称する者がいたら、これは限りなく重い罪に当たるとは考えられないだろうか。
 
だが、立ち止まろう。自分を弁えない者に、私がなろうとしているのかもしれない。私はただ恵みを受けて、「あなた宛だ」というものを受けていればよいのかもしれない。そして、それを右から左に流してでも、ひとに――あなたに――指し示すことができたら、それで十分だと言えるのであろう。この方ですよ、この方に救いがありますよ、と指し示す道標になることができたら、至福ではないだろうか。そうありたいと願う。そしてその同じ福音を知っている魂から流れてくるメッセージを受けて、また立ち上がって歩くことができたら、それで十分であるとすべきなのだろう。
 
こうした言葉の一つひとつが、お読みくださった「あなた」に何かを伝えることができたら、と祈りつつ。



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