聞く耳をもって聞く

2023年1月23日

信仰は一つ、と聖書の中に書いてあるからと言って、誰もが同じ信仰をもつべきだ、と言い始める人がいるから、厄介なことになる。否、古来キリスト教会の歴史は、そのようなことを根拠にして、強大な権力を保ってきたのが実情である。人間たるもの、権力欲が善意の陰に働くことを抑えることは、できなかったようである。また、それを見抜く目、意識する反省概念を持ち得ない、というのがその本性にあるのかもしれない。
 
なんとかして教会を統一しなければならない、との思いは理解できる。諸情況を鑑みての提言として、「霊による一致」を求めるがために、信仰は一つだと述べたのが、この言葉の背景であると言ってよいだろう。もちろんこの場合、そこで使う「信仰」という言葉の意味が、特別なものであることを理解すべきである。
 
だから「信仰」という語の定義次第で、私たちはいろいろにその語を使ってものを言うことができるはずである。人それぞれが違う「信仰」をもっている、と言っても矛盾するものではないし、その場合、全員の「信仰」は一致する、と決めてしまうのはまずいことになるであろう。政治的だか、組織的だか知らないが、強引に「信仰」を一つにしてしまうわけにはゆかないに違いない。
 
最近流行のスピノザという哲学者は、17世紀半ばを生きたオランダの哲学者であるが、当時、国家権力が信仰をひとつに決めることはよろしくない、と訴えていた。そのために社会的に干されてしまうことになり、失意の中で若い生涯を閉じたことになるのだが、哲学的に聖書を解釈したことで、散々な目に遭った。
 
スピノザは、いわば自分の生活と生命を懸けて、思想の自由を主張したのだ。しかも、その『神学・政治論』は、実に丹念に旧約聖書を読み解いている。その大胆な解釈には、現代の神学者から見て疑問に思うものも含まれるが、だが概して今私たちが聖書について理解していることについて、基本的な考えばかりが並べられているように見える。ユダヤ人の家庭に生まれヘブライ後を深く学び、哲学者としては実に珍しく、『ヘブライ語文法綱要』なるものも著している。
 
スピノザと同じような聖書解釈を、何の犠牲も伴わず、むしろそれを言うことで生計を立てるようなあり方で、得意そうに述べる現代の神学者とは比較にならない勇気を以て、スピノザは自説を語り、曲げなかったのである。
 
長い前置きのようになったが、こういうわけで私は、他人の「信仰」に無闇に干渉することはしたくないし、自分の「信仰」を他人に押しつけるつもりもない。聖書の言葉のどこを大切に握りしめるか、それはその人の「信仰」により様々であってよい。その言葉にすがってでなければ命などない、と言えるような生き方をして戴きたいとは思うが、その価値観を押しつけもしないつもりだ。
 
人それぞれに見えるものがあり、与えられるものがあり、神から呼びかけられるものがあるはずだからである。聖書をどのように読むか、そんなことを決めつけるようなこともしない。その人が神と出会い、神の声を受けたのであれば、私も心強く思うし、拍手を贈りたいと思う。だがそれは、同様に私自身も、そのように神の声を受けている、ということでもあるし、それについて捻り潰そうとしてくる輩がいたとしたら、愚かなことだと嗤うことであろう。
 
信徒としてどのような「信仰」をもつかについてはそれでよい。しかし、聖書の言葉を神の言葉として語り、それを通じて神を礼拝しようとする場を生み出す立場の人については、どのような「信仰」でもよい、とは決して思わない。私の思い描く「信仰」を持て、と言うつもりはないが、それぞれ「信仰」をもつ会衆の前で語るからには、一定の基準を有していなければならない、と思うものである。
 
それは、神学校と名のつくところを卒業すればよい、などというものはない。世にある「神学校」も、ピンからキリまである。何の霊的な導きも必要としないところも「神学校」と呼ばれているし、他方修行のようなことも必要と見なし、霊的な経験を大切にする「神学校」もある。信じられないようなことだが、「救いの経験」も「召命の証し」も必要としないままに、卒業すれば「牧師」という肩書きを与える「神学校」さえあるのである。
 
小学2年生が、「かけ算九九知ってる?」と問われた大人は、どういう顔をするだろうか。微笑ましいと思うことだろうが、毎週日曜毎に、そのような問いを投げかけられ続けることに、耐えられるだろうか。神を礼拝するという場で、聖書について少し調べてみました、というただの作文を毎週聞かせられることに、我慢しなければならないのだろうか。
 
もう幾度もこの例を挙げたが、京都に行ったことのない人が、インターネットで調べた京都の知識を得意そうに話すことを、喜んで聞く人がいるだろうか。否、いるのである。そうした意味での「説教」を、毎週毎週聞いて、神を礼拝したと自称している人が、幾らでもいるのである。つまり、我慢するどころか、それで満足してしまうのである。それを端的に悪いとは言わないが、それこそ本物だと勘違いしてしまうと、聖書なんてそんなもの、それで信仰はばっちりだ、と思い込む可能性が高まることだろう。そうした妙なものを広めるとなると、これは害悪となるので、懸念しているという具合である。
 
そのようなことしか話せない者は、説教者と呼んではならない。政治家と呼べない部類の人間を「政治屋」と呼ぶべきだという考えがある。英語でも呼び分ける言葉がある。だから、毎週何の命をもたらさない聖書講演会を開いて給料を貰っている者のことは、「説教屋」と呼んで然るべきだろうと思う。この語はまだ誰も使っていないようであるが、私は提言してみようと思う。
 
門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
羊はその声を知っているので、付いて行く。(ヨハネ10:3-4)
 
羊は、福音書のイエスの言う「聞く耳のある者」であるという前提がここにはある。うさぎ年であるからではないが、聞く耳を与えられたいと願うものである。



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