【メッセージ】悪者による幸福論

2023年1月22日

(詩編1:1-6, ローマ4:6-8)

幸いな者
悪しき者の謀に歩まず
罪人の道に立たず
嘲る者の座に着かない人。
主の教えを喜びとし
その教えを昼も夜も唱える人。(詩編1:1-2)
 
◆幸福
 
幸福とは何か。誰もが問うでしょう。問わねばなりません。でも、これこれだ、と簡単に答えておしまいにするのもどうかと思います。結論が出ないような気もします。それでも、問い続けます。しかしまた、自分が生きるその場面では、何かしらの答えを胸に懐いて、進んでいくしかないに違いありません。
 
このように、幸福についての問いは、ある意味で矛盾極まりないものです。いえ、そもそも問いというものは、穿って言えば、哲学的な問いというものは、すべてそういう性質をもったものであると言うこともできることでしょう。これをいま「永遠の課題」と呼んでみることにします。
 
そのような問いそのものもそうですが、一定の答えも、ひとにより異なるのが当然です。普遍的に一意的に定めることができるかどうか、それはできない相談なのかもしれません。
 
「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」、そういう有名な書き出しで始まる小説があります。トルストイの『アンナ・カレーニナ』です。この小説を書き上げた後、トルストイは心を病んだようになり、やがて回心のような動きで、キリスト教を求めることになります。トルストイもまた彼なりの不幸の物語の中へと落ち込んでいった末に、宗教に救いを見出したということかもしれません。
 
宗教へと傾いていく人の心は、やはり大きくは、幸福を求めて、ということになるように思われます。助けてほしい、という願いが、救いを求めて動いていく。中にはもちろん「それが当たり前」という環境の中でそのように自分が形成されていく、ということがあろうかと思います。「宗教2世」という語が取り沙汰されていますが、私たちの生活習慣のようなものも多くはそういうことなのですから、あまりにセンセーショナルに持ち出すのも考えものです。もちろん、被害を受けたとされて然るべき人たちへの配慮は必要になりますけれども。
 
政治的目的のために、宗教を利用するという巨悪には、社会的に対処しなくてはならないでしょう。また、人心を操る能に長けた者の自己実現や自己顕示欲の満足のために、多くの純朴な人の心を弄ぶようなことに宗教を利用する、ということも、やはり何とかしなければ、世の中が危険になっていくだろうと思います。きっと、キリスト教も歴史の中で初期には、そのように見られたのでしょう。そして政治の側が宗教を利用する、ということも、日本史を含め、世界各地でなされていたことも事実だとみてよいはずです。宗教と社会とは、微妙なバランスの中にあるような気がします。
 
◆詩編
 
旧約聖書の中央辺りに、「詩編」と呼ばれる、恐らく歌詞であっただろうものが並んでいます。聖書というと、神の言葉であると受け取られ、あるいはまた神と人との関係ややりとりが述べられている書が多いのですが、この「詩編」は、人の側が神に呼びかけるものが主流となっているという特徴があります。人が神に呼びかけているばかりのものであっても、それを「神の言葉」として受け止めるのは、不自然な感じもしますが、なかなかどうして、私たちの心を共感させるに相応しいものが多々あり、多くの人がこの中に愛する詩をもっていると言われています。
 
そして、新約聖書への引用としても、詩編は最も多いものの一つとして知られています。その150を数える詩の、最初のものを今日はお開きしました。第1編は、詩編の開幕に相応しい内容となっています。また、これは詩編全体の「表紙」のように理解されることもできる、と言われています。その「表紙」の最初の言葉が、こうです。
 
1:幸いな者
 
神からの言葉に対する人間の側のレスポンスは、同じ人間に向けて、「幸いな者」というメッセージから始まりました。旧約聖書の中央に位置する熱い思いの詰まった文書は、幸福論から自身を示しています。聖書は、幸いな者に与えるメッセージをふんだんに抱えています。あるいは、幸いな者になるように、と誘うためのメッセージであるとも言えます。聖書は幸せになることへと導くものであり、幸福論に満ちている、と受け止めることができると思うのです。
 
2:主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。
 
これが、この詩の結論です。「幸せな者」とは、「主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人」である、と詩編のトップに立つ詩が、私たちにメッセージを送っていること、私たちの今日の恵みは、ここにしっかりと根づいていることを受け止めるところにあると言えます。
 
◆悪しき者
 
しかし、その幸福の宣言は、何が幸福であるか、という点について、決して積極的な道標を掲げているわけではありません。
 
1:幸いな者/悪しき者の謀に歩まず/罪人の道に立たず/嘲る者の座に着かない人。
 
否定形なのです。こういう者であってはならない、という形で、悪い事態を排除するだけです。否定的な存在を出すことで、そうではないものとして、幸福を暗示するところから始めるのです。これでは、どうすれば幸福になれるのか、直接には伝わりません。
 
否むべきは、ここでは三つ。「悪しき者」「罪人」そして「嘲る者」です。具体的に何をイメージすればよいのかは、これだけでは分かりません。が、「悪しき者」は「謀」をするようですから、何か仕掛けて他人を陥れることを目論んでいるように見えます。「罪人」は、その道に立つべきではない、というものですから、罪人の進む行く運命の道というものがあるのでしょう。そこに立つだけで、もう罪人としか呼べないような、そんな人生のコースがある、という雰囲気がします。そして「嘲る者」は一定の座に着くようですが、何かしら当事者から離れた位置から、人をバカにするような様子が思い浮かびます。それと同時に、物事から一定の距離を置いて、離れて自分はそれとは関係がない、といった顔で他人をせせら笑うようなものをも彷彿とさせる表現です。
 
「悪しき者」という呼び方で、そうした者たちを代表させてみます。「幸いな者」と対比するにはいくらか分かりやすいように思えるからです。いったい「悪しき者」とは誰なのでしょうか。私の敵なのか。そういう敵は、いそうな気がします。その「悪しき者」は、ずっとそのままなのかどうか、そこが疑問に思えました。
 
つまり「悪しき者」は、永遠に「幸いな者」へと変わることはできないものでしょうか。もしも一旦「悪しき者」の側に分類されてしまった者は、もう決して「幸いな者」へと移っていくことはできないのでしょうか。
 
それとも、ひとは「悪しき者」と「幸いな者」との、どちらかに定住するものなのではなくて、その都度「悪しき者」と「幸いな者」との間をさまよい、移りゆくものなのでしょうか。
 
◆罪人
 
「悪しき者」は、語感からすると、「良き者」に変わりうるような気持ちにさせる言葉だと感じます。勧善懲悪で物語を分かりやすく描いた、かつての時代劇や西部劇は、見る者をスカッとさせる効果をもちました。マンガでも、悪者とヒーローとを対比させることで、子どもにも分かりやすいストーリーを仕立てました。怪獣をやっつけるというのも、当然の正義でした。
 
しかし、インディアンをやっつける西部劇は、そのインディアン――ネイティブ・アメリカンと呼ぶべきなのでしょう――を白人たちが制圧していたことに気がつくと、もはやいまではテレビで放映することさえできないようなものと見られるようになってきました。怪獣も、人間がむしろそのように追いやったのだという反省から、平成の頃からずいぶんと描き方が変わってきました。
 
いったい、悪者というのは、その時正義の側に立った者が、対立する相手を悪者として仕立てたようなものではないかとも言えます。自ら「俺たちは悪の組織だ」と名のるようなことは、子ども向けのヒーローものではありうるにしても、凡そ現実にはそのようなことはないわけです。だから、善人面をしてひとを騙すという組織が現れ、彼らはまた確信犯的に、自分たちは正しいことをしている、と思い込むことすらあることになります。
 
そうすると、この詩人もまた、「悪しき者」とだけ言っておればそれで済むようには考えなくなります。「罪人」という言葉が、強烈に次に現れます。これは、その人物に染みついた性質であって、なかなかそうでない者に変わり得る要素が見つからないように思えます。
 
「罪人」というレッテルは剥がせません。江戸時代、罪人には入墨が施されたといいます。犯罪の抑制のためではあったと思われますが、過去の罪を死ぬまで背負わされたわけです。ユダヤにおいて、ファリサイ派の人々などが、律法違犯を日常としている層の人々を「罪人」と呼ばわっていたのも、それに近いイメージで、そこから這い上がれないような立場の者としてそう決めていたように思われます。
 
イエスは、そういう決めつけ方を徹底的に非難したように、福音書で描かれています。自らが「正しい」側にいると信じて止まなかった、ファリサイ派の人々や律法学者などが、自分の価値観をひとに押しつけて、弱い立場の人々を「罪人」と定めてしまっていたのです。イエスはそれに対して、憤りを向けたのです。決してその「罪人」というあり方を、自分自身には適用しようとさえしないで、他人にばかり振り向けるエリートたちの姿に、イエスは真っ向から挑んだのではないでしょうか。
 
◆罪人が幸いな者になる
 
同じように「詩編」からですが、ダビデが歌っていることを、新約聖書のパウロが引用している幸福感に触れてみることにします。
 
同じ詩編でダビデが歌っているものがあります。これをパウロが引用している。ローマ書の4章です。
 
7:「不法を赦され、罪を覆われた人は/幸いである。
8:主に罪をとがめられない人は/幸いである。」
幸いな者は不法を赦され罪を覆われた人。聞き間違ってはいけない。不法を犯したのだ。罪があった人なのだ。幸いな者とは、不法を犯し罪を犯した人なのだ。
 
これはどうも訳し方が整えられすぎているようにも感じられます。というのは、どちらの節も、「幸い」という言葉が先頭に立っているからです。そのリズムが、聖書一般としては普通のスタイルであるように思います。事実、その元のものである旧約聖書の詩編32編は、「幸い」を先頭にした形で日本語でも訳されています。
 
1:幸いな者/背きの罪を赦され、罪を覆われた人。
2:幸いな者/主に過ちをとがめられず、その霊に欺きのない人。
 
これでよいと思います。が、いまその形のことを一番言いたいのではありませんでした。お気づきのことだろうと思います。この箇所では、罪人が罪を赦されて、幸いな者へと見事に転じていたのです。レッテルを貼られたはずの「罪人」さえも、「幸いな者」へとなることができました。いえ、むしろ「幸いな者」とは、元々「罪人」だった、とまで言わねばならないように私は思います。「幸いな者」とは須く「罪を赦され、罪を覆われた人」であるのだ、と見てはいけないでしょうか。その上で、過ち云々も適用されるのだ、と捉えたいのです。
 
◆正しき者と悪しき者
 
最初の詩編1編に戻りますが、ここではその末尾を覗きます。
 
6:主は正しき者の道を知っておられる。/悪しき者の道は滅びる。
 
これが詩編全体の扉ともなると言った、詩編1編を締め括る言葉です。ここにも悪しき者が登場して結ばれます。
 
正しき者の道を知るのは、主なのですね。私ではないのです。ひとは、ともすれば、自分で自分の道が正しい、と見なします。箴言12:15に「無知な者の目には自分の道がまっすぐに映る。/知恵ある人は忠告に聞き従う。」とある通りです。争いはすべて、「自分が正しい」という主張を前提にして始まると言ってよいだろうと思います。しかし詩編はその冒頭の詩の最後に、主こそが、正しき者の道を知るのだ、と宣言しています。ひとが自分で、自分を正しいとするのではない、ということを、さりげなく告げていました。
 
思えば、イエス・キリストが教えたのも、このようなことだったのだろうと思います。自分は正しく、律法を守れない者は罪人である、という思い込みを背景にした宗教的エリートたちに対して、命を張って抵抗したのが、イエスという方であったように思うのです。イエスはそのために命を渡しました。その犠牲を知って、人々はようやく事の重大さに気づきます。
 
「悪しき者の道は滅びる」とこの詩が締め括られますが、「悪しき者」については、先ほど考えました。自らを「悪しき者」と悔い改める者は、もう単なる「悪しき者」ではなくなります。しかし、「悪しき者」のまま残ってしまう者もあるでしょう。
 
恐らく、「自分は正しき者である」と豪語するような者が、「悪しき者」として残ってしまう者なのではないか、と私は捉えています。そのような意味合いでこの詩の最後を読むことが、私たちにいま課せられているのではないか、と思うのです。
 
◆主の教え
 
そのように、詩の締め括りを、まず見ておきました。ユダヤ文学のひとつの形として、対称形に対応する語句が配置されるということがありますが、最初に出てくる「悪しき者」が、詩の最後の「悪しき者」と対応しているわけです。
 
そうすると、この詩の要点はたぶん内側に、中心部分にある、と見なすことも可能です。そこには「主の教え」が登場します。そこには、主の教えに従う「幸いな者」の姿と、「悪しき者」のまま残ってしまった者の姿とが、対照されています。「幸いな者」とは何か、がはっきりと示されていますが、それは「主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人」です。この詩の中核にあたるのはもちろんのこと、聖書全体においても、これこそが中心にある思想であると言ってよいでしょう。
 
「主の教えを守る」、これは注意しなければなりません。これを思い違いをしたのが、ファリサイ派の人々であり、律法学者たちであった、と言えるからです。自分こそそれを守っているのであり、だから自分は祝福されているのであり、自分は正しいのである、と人間はどんどん自分に都合のよいように考え始めます。そして、逆に主の教えを守れない人々を軽蔑し、見下し、おまえたちは悪しき者だ、罪人だ、と裁定するようになってゆくのです。
 
2:主の教えを喜びとし/その教えを昼も夜も唱える人。
 
私たちの幸福は、ここにある、としたいものです。教会に通う方、幸福ですか。教会で、気疲ればかりしていませんか。建前の笑顔が、空々しく思えることはありませんか。聖書が、喜びのメッセージとして、語られていますか。神の教えに、うんうんと肯きながら、胸が躍るような受け止め方ができていますか。教会生活は、幸福ですか。聖書が、幸福の知らせとして飛び込んできていますか。
 
3:その人は流れのほとりに植えられた木のよう。/時に適って実を結び、葉も枯れることがない。/その行いはすべて栄える。
 
これが空しく、「そうは言ってもねぇ」などとぼやく言葉に変わりきっているようなことはありませんか。この「流れ」は、神の生ける水の流れであるように、聖書は時に描きます。私は、その生ける水の流れるほとりにいます。実はすぐそばに、神の命が流れているのです。その水は、この世で私が生きる場としての土壌に染みてきて、私の立つ根のところまで来ています。私はその水を吸い上げることができます。木としての私の体の中に、神の命の水が届きます。
 
あなたもそこにいます。教会の建物でなくてもよいのです。神の言葉をこうして聞くあなたは、確かに主の命の水のそばにいます。だから、あなたの立つところにも、神の水が届いています。あなたの内に、主の教えが届いています。あなたの内に、主の教えがあるのです。いえ、主があなたと共にいてくださるのです。だからあなたは、「幸いな者」であるのです。



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