齋藤亜矢『ルビンのツボ 芸術する体と心』より

2023年1月20日

何気なく迎えているつもりの朝だが、考えてみれば、目覚めるという保証はどこにもない。たぶん、目覚めるだろう。だが、睡眠中に命を失うケースもあると聞く。分からない。一寸先は闇とは思わないが、人間が決めてしまうことはできないのである。
 
「恐怖」という心的現象をもとに、それが「美」へとつながることを、芸術と感覚というテーマで記した人の文章が、中三生の模試に出題された。レベルの高い生徒たちのクラスのために、たんなる解き方ではなく、文章のエッセンスを捉え、頭の中に「思考の溝」を掘るための文章を綴った。本文を読んでからこそのアドバイスになるのだが、それを承知の上で、本文をお読みでない方に向けても公開してみようかと思う。
 
 
齋藤亜矢『ルビンのツボ 芸術する体と心』より
 
芸術を生みだす心のしくみとは? 子どものころの砂遊び、骨折、片目の光を失った経験……。異色の芸術認知科学研究者が、自身の体と体験をとおして感じたことを軸に綴る。アートとサイエンスの交差する場をフィールドに「! 」を探し、そこにアーティストの「! 」やサイエンスの「?」を添えた珠玉のエッセイ集。
 
こういうふれこみで、本書はウェブサイトで宣伝されていた。そんなことを知らなくても、芸術という観点は気にしてみるとよいだろう。
 
人間は、何故「美」を感じるのであろうか。美は文化により異なるだろう。美についての客観的な判断は不可能ではないのか。それを、18世紀の哲学者カントは、確かに美は主観的なものであり、科学的な命題のように万人が認める結論は得られなくても、何らかの普遍性を求めるに値するものである、と解した。およそその時代から、美学という学問が始まったとされている。
 
この文章には、抽象的な語が多く、頭の中だけで理解しようとすると困難が伴う。そのような場合、おそらく何らかの形で「対比」がなされているであろうから、記号を振るか、書き出すかして、何と何が対比され、何と何が同類のことなのか、整理すべきであろう。
 
ここでのテーマは「恐怖」である。一般にそれは「身の危険を回避するシステム」である、とまず定義する。それに対する行動としては、二つがあるという。「逃げる」か「戦う」か。以下しばらく、これを人間における恐怖を分析することで恐怖について考察する。
 
恐怖を覚えると、危険の正体を知識で出迎える。危険でないと判断できたら、「脳の報酬系」がはたらくという。快が与えられるのだ。この考えにより、「美」と「恐怖」とが親和性(結びつくこと)をもつことを説明できる、と筆者は言う。ほら、「美」が出てきた。
 
恐怖は、頭より先に体で感じるであろう。反射のようなものである。まだ知的な能力は働いていない。本能的な領域である。このとき、自分の意思や意識を超えた「自然」を感じるのだ、とも言っている。
 
また、恐怖の場面において、なんとか状況を把握しようとして感覚や知覚が鋭敏になる、というケースも紹介している。そして恐怖を感じた出来事は、鮮明に記憶に残る、ともいう。それは、次にその危険に遭遇したときにうまく対応できるように記憶しておく、というわけだ。怖い経験をしておけば、次に同様の経験をした場合に対処しやすくなるのは、よく分かるだろう。
 
筆者はこの本で芸術を話題としている。しかも体と心だという。ここまでの話で、それが実によく現れているとは思わないだろうか。そして議論は、「ざわざわさせた芸術作品」にも触れるようになった。きっとこれが、筆者の芸術論の、要に近いところになるのだろう。
 
だから括弧つきで「生きている」という語を強烈にここに載せている。「生きている」感覚は、恐怖が危険や死に直面したときのしくみがあるからこそ、感じることができるのだ、という、人間の根幹に関わる言明を表示しているではないか。
 
そこから少し空気を抜くようにして、熱帯雨林で感じた生き物の気配の話題を持ち出す。ここで再び「ざわざわする」という語が登場する。「ひりひりする」も伴っている。こういう繰り返しは、かなり気持ちが入っている。知的な文章を書く人は、こうした通俗的な言葉を、繰り返し使うことはひかえるからである。実際、この「ぞわぞわ」「ひりひり」は、引用された文章の最後にもまた登場する。おそらく、漢語では、筆者の言わんとするところがうまく伝えられないのだろう。もっと「感覚的な語」によってこそ、この「芸術」に関して何かを伝えることができる、と考えたに違いない。
 
動物たちは、生死に関する場面で生きているのであり、そこでは「恐怖」が重要な役割を果たしていることになる。まさに「生きている」感覚が、恐怖により育まれているという、人間の場合について筆者が考えたことが、証明されているではないか。
 
そのうえ、人間には「想像力」が加わる。今現在感覚している恐怖と、経験から得られた記憶に基づく恐怖だけでなく、もっと未知の状況に対しても、対応する能力がある、ということである。悪い事態を想像力により予想して、「さきまわりの恐怖」を感じることで、より多岐にわたる危険回避ができるようになる、というのである。
 
実は最初に挙げた「美」についての議論をカントが行ったとき、「美」を決める心の能力は「想像力」である、と言っている。「美」という概念は、「想像力」に基づいて形成される、としていたのである。筆者も当然、このことを背後にとらえながら、こうした文章をつづっているに違いない。
 
文章の後味をよくするには、ただ結論をバシッと決めればよい、というものではない。少しひねりを利かせた終わり方をすると、より印象的であるし、読む者の心が軽くなる。「名探偵コナン」が、事件解決後に短いオチを入れるのも、そのためであろう。
 
ここでは、「美しい」ものに「ぞくぞく」する感覚を、読者に思い起こさせている。そう、この本は芸術の感覚の理論を述べているのであり、「美」に対する感覚を説きたかったはずである。「美」に対する「ぞくぞく」は「もやもや」とは異なり、もはや人間の想像力すら追いつかないような場面で「ざわざわ」「ひりひり」するような感覚に近いものなのだろう、と結んでいる。つまり、「美」というものは、あくまでも理論で述べきってしまうことができないものなのである。予想できないものに出会うときの驚きや気持ち悪さというようなものがあるからこそ、芸術であるのではないか、と提言しているのである。
 
 
【もう少し考えてみたい】
 
さて、もう少しだけ考えてみよう。最後のところで、動物にも恐怖が生死に直結するだいじな情動があることが述べられていたが、想像力をもつのが人間だけであるかのように論じられていた。想像力により、ただの経験からではまかなえないような未来を予想する「不安」が起こり、知恵を用いて環境をつくりかえるのである、と。果たして、動物にはそれがないのだろうか。
 
たとえば猫の多くは、子どもの声がすると逃げる。猫は子どもが苦手である。大人の人間だと、それなりに対応してくれることを知っている猫も、子どもだと、何をされるか分からないと考えているのだろうか、とにかく近寄らないし、逃げて行く猫が多い。たんに、以前乱暴に振舞った子どもから逃げるのではなく、どんな子どもでも、警戒する。これは、猫の想像力と言うことはできないであろうか。
 
また、恐怖が去った後に「快」という「報酬」があることが強調され、それが絵のような芸術作品に触れることへとつながるものだと論じられている。恐怖が、いわば良い方向に作用したこと、そして「生きている」実感を得るために役立ったことを重んじている。だが、恐怖の経験が、立ち上がれないほどのダメージを人間に与えることもあるはずである。「トラウマ」や「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」などのように、人を前向きにさせないように働く心的作用もあるであろう。文章では、想像力が明るい方向に働くことだけしか触れられていないが、このダメージもまた、想像力に基づくものではないだろうか。
 
「美」に対する感情の説明として、もちろん本論は有効なものではあるだろう。しかし、動物には想像力がないために危険を遠ざける能力がないかのように思わせる書き方や、「ざわざわ」や「ひりひり」が専ら良いことへ働くのであるばかりであるかのような書き方が、少し気になる。もちろん、辛い経験が、それを乗り越えて立ち上がり前進するための力となることは、望ましいと言える。だが、辛い経験の中で心を閉ざす人も多い。その辛さや不安について、私たちは思いを馳せる必要があるのではないだろうか。



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