【メッセージ】痛みを伴う叫び

2023年1月15日

(エレミヤ17:5-18,ローマ1:9-10)

主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。あなたこそ、私の誉れだからです。(エレミヤ17:14)
 
◆執り成しの祈り
 
ひとは、一人で完結することはありません。一人だけで立つことができるならば、それは「絶対者」です。神は本来、そういうお方です。ひとは、相手を必要とします。「他者」があってこそ、ひとであることができます。絶対者ではないのです。その「他者」のひとつとして、神がいるというとき、ひとは信仰者となります。その神をキリストとして知るとき、ひとはキリスト者となります。
 
キリスト者は、祈ります。お願いではありません。キリスト者とは、神との関係の中に立つ者ですから、神との関係のための営みとして、祈りを位置づけます。その祈りの中には、誰か他の人、同胞のために、と祈るものがあります。「執り成し」の祈りだと呼ぶこともありますが、世のため人のために祈る、それもまた祈りの中の大きな意味となるでしょう。
 
祈るべきことは、たくさんあります。教会が提供する「祈りのリスト」を使うこともできます。全部覚えているのも大変だから、巻物のようにした祈りのリストを書いて、日々それを開いて祈る老婦人のことを、以前ご紹介したことがあります。
 
世界中の問題のために祈ることもあります。戦争や飢餓、不遇な人々のことを思います。ただ、世界平和のために祈るのは、さほど難しいことではない、と言われます。厳しい言い方をしますが、遠い他人事のために祈るのは容易なのです。むしろ、自分の身に迫る出来事のため、自分の身近な人の救いのために祈ることは、実に難しいのではないでしょうか。
 
しかし祈るとなるとき、その自分自身の問題のためにこそ祈らねばならないときがあります。ひとのことも大切でしょうが、とにかく自分が苦しくて苦しくてたまらない、という思いの中で、切に祈るというところにいる人も、たくさんいます。
 
◆エレミヤの寂しさ
 
ここで今日お開きした、エレミヤ書に目を向けます。エレミヤは預言者です。旧約聖書の時代、あのバビロン捕囚まで寸前の時代に、神から呼ばれ、これを語れ、という使命を受けた人です。ただ、エレミヤは他の預言者とはひと味違うと言われます。エレミヤは時に、神に楯突きます。というより、神とサシで向き合い、吠えることさえするのです。けれども、神に心底逆らうことはありません。神の言葉を人々に告げることに徹します。但し、為政者や中央勢力からすれば危険人物とみられますから、危ない場面に追い詰められることも度々ありました。
 
エレミヤは、神からこれこれを言えと迫られます。それをエルサレムを中心としたユダの人々に告げます。でも、まともに聞いてもらえません。すでに北イスラエル王国は滅んでいます。この南ユダ王国も、いま政治的危機にあります。ここで神の言葉を聞き、へたに大帝国に逆らうのではなく、一時その支配に耐えておけば、しばらく後にまたイスラエル民族は立ち直ることができる、と叫ぶのですが、そのことで逆に命を狙われることになります。
 
エレミヤは孤独でした。神の言葉を受けて語っているのに、なかなか聞いてもらえません。今風に言えば、インフルエンサーにはなれなかったのです。
 
このエレミヤの苦悩に、私たちが重ねるものがあるでしょうか。自分は確かに聖書からメッセージを受けた。それを訴えたい。でも、自分の思いを分かってもらえない。もしかすると自分のほうが間違っているのだろうか、とも悩みます。でも、自分の信仰は、確かなものがあるのです。自分と神との関係の中で、かなり自分自身をも吟味しています。自分は傲慢ではないだろうか、自分で自分のことを誇るようなこと、自分の正義を思い上がって掲げようとしていること、そんなことはないだろうか、とよくよく考えてみます。それでもなお、これは神からのメッセージなのだ、と訴えるのです。
 
でも、人々にはそれが伝わりません。
 
◆教会内の問題
 
他方、簡単に自分の気持ちを多くの人に分かってもらえるタイプの人がいます。共感されるというのは、もちろんその人の良さや切実さがあって、多くの人に支持されるということがあるでしょう。けれども、何かしら有名だからとか、面倒見がいいからとか、実利的か心理的かの隠れた原因があって、人々が褒めそやす言葉の中に浸っているという場合もあるように見受けられます。
 
すると、褒めそやされる中で、自分はそれに値する者だ、と考えるようになって、自分の気持ちは正にそこにある、と勘違いするようなことも起こることがあるでしょう。賞賛の中に気分がよくなり、自分のアイデンティティが専らそこにしかないようになってしまうのです。自分と神との関係という軸ではなく、人々にもてはやされる方が、自分の生きる中心になってしまう危険性があるわけです。
 
キリスト教を説く「偉い人」がいます。有名人とお近づきになると、自分も偉くなったように錯覚するのが人の常ですから、そのような「偉い人」を称えて結びつくことを求めます。いまはSNSでそれがかなり簡単にできるようになりました。私もまた、名の知れた人に近づきます。但し、こうした背景を日頃考察している人間ですから、自分はこれを警戒し、別の意図もあって、それなりに冷静に対処しているつもりです。過信はしませんけれども。
 
人々に対する影響力もあり、支持者に囲まれます。時に牧師という立場は苦しい、とも言われますが、名が通ってくると、牧師という立場はなかなかよいもので、「先生」と呼ばれて悪い気はしないし、むやみに批判や否定する声が現れることはありません。インフルエンサーとしての役割を果たすことができます。
 
でもそれは、エレミヤの姿とは合致しません。そればかりか、もはや引用も控えますが、イエス自身が、信じる者はこの世でどのような仕打ちを受けるか語ったことと、正反対であるとはお思いになりませんか。
 
けれども、歴史上のキリスト教会は、福音書のイエスの姿とは逆のような形で、権力を恣にしてきたのではないでしょうか。ここは大いに振り返らなければならないと思います。
 
いや、現代社会で教会にはそのような権力はない、と言われるかもしれません。特に日本では、教会が社会的に強みをもつようなことはないでしょう。政治に対してはそうではないかもしれません。その意味で、日本では、社会的な影響を教会が及ぼすことにはならないかもしれません。
 
でも、先に触れた、教会内でのインフルエンサーとその取り巻きが結束して、小さなグループを形成するとなると、その内部でだけまとまってしまう懸念があります。もし外から見れば実は錆びきったような自己完結したグループに過ぎないとしても、内部だけで、教会は素晴らしい、と互いに慰め合っているだけなのかもしれません。
 
二千年前の時代ならば、それでよかったとも思えますが、果たして今はどうでしょうか。
 
今、その輪の中で、違和感を覚える信徒もいます。SNSの世界からは、教会や牧師からひどい扱いを受けたという声も多々聞こえてきます。中には明らかに犯罪として挙げられる場合もあります。それはもしかすると、当人の問題であり、その言い分は見当違いであるということがあるかもしれません。しかし私には、そういうことばかりではないような気がしてなりません。それは私自身もそういう問題を、多数実際に目にし、また経験もしてきたからです。
 
そのような形で、教会のあり方に、また広くはキリスト教世界に、傷ついている人が、少なからずいるだろうと思います。傷つき、悲しみの涙を流していることが、実際にあるわけです。確かに教会はかくあるべきという姿もあるし、安易に教会批判をすることが常に肯定されるものではないとは思います。組織的な悪をなすことは、一般のキリスト教会には殆どないとは思えても、それでも、企業でも学校でも、組織的な問題を含むところはたくさんありますし、教会組織ももはや例外ではないと言わざるをえない世の中になっていると感じます。
 
◆エレミヤによる二分
 
さて、エレミヤに限らず、聖書の中で預言者や各種筆者が描くのは、しばしば「対比」という形をとります。単純化しすぎるかもしれませんが、詩編が顕著なように、善と悪との二つのタイプに分けて語ることがあるのです。確かに、対比させて述べると、論点を整理できます。分かりやすく伝わるだろうと思います。ただ、常に対比させて考える癖がつくと、物事を余りにも無条件に二分してしまうことがあります。
 
5:主はこう言われる。/呪われよ、人間を頼みとし/肉なる者を自分の腕として/その心が主から離れる人は。
 
7:祝福されよ、主に信頼する人は。/主がその人のよりどころとなられる。
 
エレミヤもまた、分かりやすく二つを対比させています。人間ばかりを信頼してしまい、主から心が離れてしまった人を、悪しき側に立てています。他方、善い側には、主にこそ信頼する人を置いています。
 
その祝福される側の人々は、主を拠り所とします。それは、暑さの中を耐える木のように、水が涸れることのない根を張ってしっかりと植わっているようなものだというのです。このように示せば、聞く者は誰もが納得することができそうです。明確な比較を以て二分した話し方の効果です。
 
しかしこの後エレミヤの言葉は、その二つのうちの一方に大きく傾いていくことになります。エレミヤの眼差しは、主を捨てる側、つまり主から心が離れ去った者のほうに、専ら向かうようになるのです。
 
◆傷ついた預言者
 
人の心が一旦偽り始めたら、治しようがない。諦めめいたような言葉ですが、エレミヤは、主から心が離れた人が、再び主に立ち帰ることを、ここでは想定したり期待したりしていないように見えます。それでもエレミヤは、訴えることは止めません。誰も耳を貸さないでいるかもしれませんが、語ることを止めません。
 
不正な富をなす自分に気づかないのか。主を捨てている自分を意識できないのか。神からすっかり自分が離れていることに、気づかないままでよいのか。このような叫びを、エレミヤの言葉から私は聞きます。自分で自分のしていることが分からないのが、人間というものです。自分の悪しきところには、自分だけではなかなか気がつきません。私もたぶん、いまそうなのです。それが怖いから、大きなことは言えないのですが、ただ、それでも何か言わずにはおれないのが、預言者であったのでしょう。エレミヤは訴えを続けます。
 
主が命の水の泉だったではないか。その水のほとりにありさえすれば、枯れずに実を結ぶこともできたではないか。それなのに、ついに愚かになってしまうのか。  
けれども、それに続いてエレミヤは願います。
 
14:主よ、私を癒やしてください。/そうすれば私は癒やされます。/私を救ってください。/そうすれば私は救われます。/あなたこそ、私の誉れだからです。
 
突然、「癒やしてください」ときました。どうしてでしょう。傷ついたからです。エレミヤは叫ぶだけ叫びました。イスラエルが主から離れたことを批判し、その行く末を案じて叫び続けました。叫び続けて、エレミヤは傷ついたのです。同胞の悲惨さを指摘しました。自己認識のてきない有様を嘆きました。それだけだと傷つきません。エレミヤは、その自分の言葉が、少しも顧みられないことを知ったのです。誰も聞かない。誰も変わろうとしない。自分の問題として意識するようなことに向かわない。これで、預言者はいたく傷ついているのです。それでもエレミヤは言います。
 
16:私は、あなたに従う牧者であることから/逃げたことはありません。/病になる日を望んだこともありません。/あなたはご存じです。/私の唇から出るものはあなたの顔の前にあります。
 
それでもなお、自分は主に留まるのだ、と決意を宣言しています。主こそ、「私の逃れ場」(17)であることを告白するのです。
 
◆パウロの傷
 
新約時代の預言者とくれば、パウロの名を挙げてよろしいかと思います。もちろん「使徒」と自称はしても、パウロは自らを「預言者」などとは呼びません。キリスト教思想の拡大のため、さらにいえば存続のため、パウロほど大きな働きをした人はいないと言えるでしょう。そのパウロが、自分の神学思想の集大成として書き上げたかのように見える「ローマの信徒への手紙」の9章からも、パウロの叫びを聞いてみます。
 
1:私はキリストにあって真実を語り、偽りは言いません。私の良心も聖霊によって証ししているとおり、
2:私には深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがあります。
 
今でこそ、パウロと言えばキリスト教の第一人者、ということに決まっていると見られるでしょうが、パウロ当人は、そのような立場に置かれることを知りませんでした。エルサレム教会など、主流の立場からすれば、パウロは下っ端であり、元悪者であり、肩身の狭い思いをしていなければならなかったはずです。なんとか認められたとはいえ、キリストの弟子たちからすれば亜流であり、あまりまともに相手にされなかったようなフシがあります。
 
つまり、パウロもまた、当時は決してインフルエンサーではなかったのです。そのパウロが、「深い悲しみ」があると言うのは、もちろんここから始まる、イスラエル民族の救いの壮大な計画を語る始まりです。異邦人伝道に走ったパウロでした。ユダヤ人に散々な目に遭わされ、もうユダヤ人は相手にしない、異邦人を救いに行く、と故郷を旅立ったパウロでした。しかし、それはイスラエル民族を捨てたわけではない、というとの弁明のために、ローマ書の9章から11章が書かれたと考えられています。
 
でも、同胞に対して届かぬ声に、深い悲しみを感じていました。パウロもまた、傷ついていたのです。パウロの表向きの活動は、異邦人に心身を削り、もはやイスラエルの救いなど頭にはないかのように見えるものだったと思われます。でも、その心の底には、苦しい思いが潜んでいたということです。他人からは見えないところで、外見からは分からないところで、傷ついた心があったと思うのです。
 
今でも、「助けて」と言えないで苦しんでいる人たちがいます。子どもたちの中にもたくさんいます。日本人の精神構造のひとつに、その傾向があるのだ、とも言われています。でも、言えないから苦しんでいるのです。いま、そのことを論ずることはしません。ぜひ続きにお考えください。でも、「助けてと言えばいいのに」と軽々しく言うことは控えてください。それは強者の論理です。強い側に立って、弱い者の辛さを蔑ろにし、時に踏みにじる論理です。それは、傷ついた心をさらに痛めつけることになります。
 
◆痛みを伴う叫び
 
エレミヤにしても、パウロにしても、神からの言葉を語るように、と命じられたことがありました。彼らはそれぞれ語りました。けれども、それはなかなか人々から理解されませんでした。伝わりませんでした。そのため、心は傷ついていました。深い痛みが伴いました。けれども、そこから叫んでいました。自分の苦しみを分かってくれ、という叫びではありませんでした。神はこうである、という叫びでした。神を示すための叫びでした。
 
それは、決して派手ではありませんでした。人々からもてはやされるような物の言い方にはなりませんでした。けれども、こうした預言者たちは、孤独に追い込まれるのではなかったのだ、と思います。
 
誰かに理解されている。知ってもらっている。その確信があるだけで、ひとは強くなれることがあるからです。他者の理解は、実に心強いものです。インフルエンサーにはなれなくても、誰かが支持してくれていると、そのわずかな支えにより、励まされるということがあるのを、SNSを営んでいる人は感じたことがあるだろうと思うのです。
 
誰か対話相手が必要です。家族や友人がいないと、少し辛いかもしれません。しかし、キリスト者には対話相手がいます。そこにイエスがいます。見上げれば神がいます。対話できるのです。祈りは、そのためにあるのです。
 
願いましょう。告げましょう。イエスの名によって祈るならば、神との回線が通じます。ゲートが開いて、通信ができるのです。たとえそうでなくても、神はあなたを守るでしょう。神はあなたを導くでしょう。しかしあなたの側での安心というものは、背後で働く神というだけでは与えられません。あなたは祈ります。祈ることで、神と対話ができます。おまえのことは分かっているよ、知っているよ。神があなたに声をかけます。
 
思い起こします。私は、神と出会ったとき、神に呼びかけるということを初めて知りました。そのとき、確かに一線を超えたのです。
 
傷ついているあなたは、いま呼びましょう。神の名を呼び、願うのです。「主よ、私を癒やしてください」と。



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