スマホ新調に思うこと

2023年1月13日

年始に、スマートフォンを新調した。偶々以前によい機種を得たので便利だったが、家族のものが異状を来し始めた。家族揃って契約していたので、私のものもこの機会に替えることにしたというわけだ。丸4年使っていれば、バッテリーも劣化する。私は家にいるときにはパソコンを使うので、半日はスマホを切っている。そのため、私のバッテリーはほぼ問題はなかったが、全くないわけではなかったため、揃って替えたことになる。
 
流石に元日は店舗が休みなので、2日に行った。思ったよりよい条件で契約ができ、以前より少し安く動けそうである。問題はデータの移行だったが、スマホどうしであれば、さほど苦労は要らない。ケーブルでつないで少しばかり選択しながらプログラムを進めるだけだった。ありがたいと思った。以前、PHSからスマホに替えたときには、大変だった。データは自ら変更しなければならないため、連絡先などすべて手作業で動かしたのだ。
 
アプリなどはそのまま移せる。だが、アプリ内のデータは初期化される場合があった。妻はそのあたり研究していて、LINEのトークをバックアップしていたが、私はしていなかったので、トークは初期化されてしまった。但し、パソコンのLINEはそのままなので、別段ダメージはないと思った。息子の場合、その点気の毒だった。
 
そうしたことはあるにせよ、概ねデータは新しい機種にそのまま移っていくとは言えるのであって、器が変わっても、中身は殆ど伝えられていくということになる。これを見て、私は生物というものがそういうことなのか、という気がしてならなかった。
 
DNAと呼ばれる物質の中に、遺伝子のプログラムが収められている、と現代科学は考えている。有性生殖の場合には、別の個体のプログラムと半々の情報を持ち寄って、次の世代の個体を生むが、無性生殖の場合はそのまま情報が移行する。細かな点はさておき、この情報は次世代に伝えられるが、個体そのものは死滅していく、という辺りの対比が、生物の生命活動と類似しているということは言えるはずである。
 
事実、そのような捉え方は、生物学の中では半ば常識であるのだという。私たちの肉体はやがて使い古された機種として役目を終えるが、データは新しい機種に残されていくということである。さあ、私たちは、いったい何を伝えていくことができるだろう。混乱なのか、平和なのか。憎しみなのか、愛なのか。
 
他方、そのときいまこうして考え行動している私の意志や統覚あるいは自我というものは、どうなるのだろう。また、その意志は自由である、などというが、果たして制約を受けた中で存在するこの私は、何かのプログラムの一部として動かされているという可能性はないのかどうか、いろいろ考える余地もある。そもそもそのときにいう「自由」とは何か、ということも、様々な側面や角度から、見定める道が分かれていることになるだろう。
 
もちろん「自由」という語自体の定義や概念が異なるために、思索する人により様々な規定が可能になることは、押さえておかねばなるまい。スピノザはスピノザの考えにより「自由」を否定した。空中に放られた石は、もちろん運動法則に従って飛んでいるだけなのだが、自身では、自由に風を切って飛んでいる気持ちでいるかもしれない、というように説明している。
 
いまやスマホという通信手段で、いつでもどこでも資料が手に入り、情報を得ることができるようになった。だが、世間を見ると、それに使われ、振り回されているのではないか、と思われる向きも少なくない。自分では自由にそれを使っているつもりであるかもしれないが、どうにも操られているのではないか、という危惧である。放られた石のように。
 
世の中には、スマホを手放して自由を得た、という人もいるようだ。なかなかこの社会で活動をするには大変かもしれないが、それもまたひとつであろう。私は、スマホをできるだけ私が利用する、という形でいくことができたら、と願って自らを監視していきたい、とは思っている。



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