筋道を立てて

2023年1月11日

どだい、すべての人に同じ教育を施すという発想に、無理があるのかもしれない。勉強したくないという子は、なにもすべての勉強が嫌だというわけではないのだ。エリートを作ろうとするシステムに基づく教育制度の勉強が、自分のあり方とは違うというケースが多々あるのではないだろうか。
 
先月末の、日本経済新聞のコラム「春秋」の前半を引く。
 
「おじさん、大学へ行くのは何のためだ」。受験勉強中の満男が、ふと寅さんに尋ねる。その答えがいい。「長い間生きてりゃあ、いろんなことにぶつかるだろ。そんなとき、勉強したやつは自分の頭できちーんと筋道を立てて、どうしたらいいか考えることができる」▼「男はつらいよ」シリーズの第40作「寅次郎サラダ記念日」に、こんな名言があった。よい会社に入るためとか、すぐに役立つ技能を得るためとか、寅さんは決して言わないのである。学問というものの意味を説いて、すとんと胸に落ちる言葉ではないか。一人ひとりが地道に築いた知が積み重なり、社会も強くなる――。(2022年12月30日)
 
寅さんの知恵は、もちろん原作者あるいは脚本家の知恵であるのだが、「自分の頭できちーんと筋道を立てて、どうしたらいいか考えることができる」ことが望ましい、と私たちに訴える。「筋道を立てて考える」という言い方は、確かに時に見誤って悪い方向に進むこともあるが、概ね世の中には必要なことであろう。ただ、そのためには、筋道の前提あるいは出発点というものが検討課題となる。大前提の狂いが、以後の論理を悪や破綻へ導くということにも、私たちは目を光らせていなければならないのだ。
 
すべての人に同じ教育を施すという発想に、無理があるのかもしれない――このように最初に呟いた。だから、人はそれぞれに、自分に合った形で生きる道を見出せばよい。そのような結論が導かれるとお思いの方もいると思う。決してそれは間違っていないと思う。だが、問題は残る。この社会は、構造的に重大な格差をもたらすようにできているからだ。同じ苦労をするならば、この社会で高い地位を得たり、多くの収入を得たりすることを人が望むのが普通であろう。だが、そのためには、「自分らしい生き方」をするということが許されない構造があるということだ。
 
そのためには、「同じ教育」が与えられなければ、不公平ということになる。そうでないと、優生的な考えをベースにする事になりかねないのだ。
 
しかし、制度として「同じ教育」があればそれでよい、というものでもないようだ。実際「賢い」者が得をする仕組みになっているのだ。その「賢さ」が、一定の生活水準をもち、社会で生きることが有利になるようなことを学び、訓練することにより身につけられるものだ、とするならば、「親ガチャ」ではないが、生まれながらにして、ある程度位置づけられているという現実が、確かにあると言える。
 
社会の制度を変革するには、勇気が必要になる。何もかもうまくいくことはない。また、自分にとって損な部分が含まれる社会の構造があるとしても、そのために貧窮の場から救われる人がいるとなると、私たちが自分の益だけを求めていくことは決して望ましいことではない。置かれた立場で花を咲かせる、という生き方を推奨した方もいたが、私たちはさしあたり、いま立つその場で、「筋道を立てて考える」ことから、始めてみるということは、まずやってみてよいことであるような気がする。



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