【メッセージ】無価値な思い

2023年1月8日

(申命記22:5,ローマ1:26-28)

彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。(ローマ1:28)
 
◆避けられない挑戦
 
普通、一定のことを調べてからお話をすることにしています。どんな分野でも私はしょせん素人ですから、調べたくらいで物事を知り尽くしているかのように言うことは慎むべきだ、とも思っていますが、それでも語る上では、最低限のことは調べてからお伝えしなければならない、というくらいの常識は弁えているつもりです。
 
けれども、今回は諦めました。もう少し調べてから、と思っても、無理でした。あまりにも深すぎて、広すぎて、私は対処できないのです。LGBT(Qなど様々派生形があるが今回はこれで代表させてください)について、自分は何も知らないのだと思い知らされているところです。
 
それでも、それについて触れるお話をするように示されています。表面的なことを言うばかりで、何かを理解したようなつもりになりませんように。当事者に、不快な思いを懐かせてしまうかもしれません。そうでない人々には、誤解や嘘の情報を与えることになるかもしれません。
 
でも、これから始めなければ、いま私たちは神と向き合うことができません。誰かを傷つけたら、責任は私にあります。けれども、冒険させてください。聖書をいまここで語る者として、LGBTの方々について、特にキリスト教がどうするとよいのかという問題について、これ以上避けていることはできないのです。そのようなチャレンジを、いま私は受けています。
 
◆教会は逃げている
 
近年、ようやくとでも言うべきか、まだとでも言うべきか、LGBTに対する認識が、社会に及ぶようになりました。では教会はどうでしょうか。教会の礼拝説教で今日の箇所を取り上げている教会があったら、かなり勇気のあることではないかと思います。私の知らないところで多くの誠実な牧師や教会が、この問題に立ち向かっているものだとは思います。中には正にその当事者が牧師をなさっている教会もありますし、その問題に斬り込んだ本も発行されています。
 
でも、身近なところでは、説教で正面からこれを扱うという話は聞きません。ローマ書の1章のこの箇所を取り上げること自体が、殆どないような気がします。もし取り上げても、LGBT問題は完全にスルーして、別の問題を論ずる、ということはあるように思うので、どうにも危険な橋は通らないようです。聖書箇所を選り好みしているのでしょうか。
 
女は男の服を身にまとってはならない。男も女の服を着てはならない。こうしたことをする者をすべて、あなたの神、主は忌み嫌われる。(申命記22:5)
 
それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然に反するものに替え、同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。(ローマ1:26-27)
 
いやいや、これはLGBTのことではありませんよ、などと話す説教が、あるかもしれません。そのようにも読めますが実は別の霊的な意味があります、などとごまかすような、あるいはこじつけるような、そういうことはすべきではありません。その問題を上手に避けることは、私にもできそうです。しかし、それは明らかに不誠実です。
 
まるでタブーのようなこの問題に、今日は逃げずに向き合いたいと願っています。
 
◆教会の偽善
 
女は男の服を身にまとってはならない。男も女の服を着てはならない。こうしたことをする者をすべて、あなたの神、主は忌み嫌われる。(申命記22:5)
 
聖書は確かにそう書いていました。「忌み嫌われる」というから、滅ぼすつもりはないらしいよ、などと言っている場合ではありません。主が「忌み嫌われる」というのは、只事ではないはずです。
 
それで、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられました。女は自然な関係を自然に反するものに替え、同じく男も、女との自然な関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。(ローマ1:26-27)
 
これを同性愛のことではない、と説明できる能力は、私にはありません。そして、こうしたことは、ここだけではありません。聖書の随所にあります。それは悪であり、罪であり、神が忌み嫌うというのです。これはもう、ごまかしようがありません。
 
それでも、私は聖書を信頼しています。「信仰」というと特別な世界のように響きますから、同じ原語のもつ別の日本語訳である「信頼」と言います。そうなると、私の態度は、LGBTの人々を悪だと断罪し、厳しい神の裁きを突きつけることになるのでしょうか。
 
キリスト教会の中には、LGBTについての議論が世間で起こってきたとたんに、「私たちはLGBTの味方です」と宣言するところも一部現れました。「基本的人権を守りましょう」「神は一人ひとりを愛しているのです」などと、尤もらしいことを言います。時にそのように「正しい」ことを言う自分たちに酔い痴れているのではないか、とすら思ってしまいます。
 
LGBTを罪だとして、差別し、徹底的に糾弾し、社会から抹殺しようとし、死刑にまでしていたのは、誰でしょうか。実にキリスト教会なのです。19世紀イギリスの作家オスカー・ワイルドが同性愛の件で有罪判決を受け、失意の中に亡くなったことは大きな事件として有名です。もちろん、こうした例は数え上げればきりがありません。ムーミンすら関係しているというのは、知らない人は全く知らないのです。
 
確かに教会の教えがその歴史を刻んできたことは、否定しようがありません。LGBTの人は人権を認められず、教会が「罪」のレッテルを貼り続けてきました。いまもその声を抑えることのない教会団体はたくさんあります。
 
この現状の中で、自分の教団だけは、LGBTの味方です、と言うことは、果たして正義なのでしょうか。徹底的に罪と決めつけ社会から追い出してきたキリスト教の歴史は、自分たちの教団とは無関係だとでも言うのでしょうか。リベラルと呼ばれる教会にその傾向が強いような気がするのですが、しばしばその教会は、戦争責任を国や天皇に求めています。この世がすることは罪であり、教会がすることは罪を免れる、そんな姿勢がありありと見られるという意識は起こらないでしょうか。
 
まず謝るのが先のはずです。悔い改めもなしに、自分は正しいという顔をしているとすれば、それこそまさに偽善者に違いありません。キリスト教が、これまで散々痛めつけてきた人々に対して、あなたがたを支持します、という言葉が、悔い改めなしに出されることなど、考えられないと私は思うのです。
 
◆聖書外の歴史
 
LGBTについては、調べても分からないし、責任がもてるような考察もできない。最初にそういうことを申しました。矛盾するようですが、歴史の中でおよそ分かっていることについては、考えの土台に置くことはしておきたい、と思います。
 
つまり、聖書文化を離れて、世界の各地でどのように考えられていたか、ということです。同性愛という言い方で捉えるならば、キリスト教世界で言うほどに悪だと見なされていないことが多々あります。プラトンが描いたソクラテスは対話篇の中で、少年愛は当然のことのように語り、理論からすると同性同士の恋愛が当然あって然るべきものとして提示されてもいます。哲学の祖は、同性愛を問題視することはしませんでした。
 
ローマ帝国でも、同性結婚が行われていたようなことを聞きました。歴史を繙けば、あちこちから出て来ます。それは、キリスト教文化の中でもかなりあるようなので、詳しい研究やその成果の公表が多くなされることを願います。そうなると、それを悪だ罪だと強調するのは、ちょうど女は家を守るべきで外で働くのはよくない、というようなごく近代の道徳的思い込みを、普遍的な日本の伝統であるかのように勘違いしているのと似たり寄ったりのものに見えてきてしまいます。
 
その日本でも、同性愛については実におおらかだった、とも言われています。それが禁じられる法律は元々なかったようですし、特に男同士のものは、さも当然のこととして存在したようです。女人禁制の社会がある中では、なるほどあたりまえのことのようにも思えます。
 
いわゆる結婚ができない身分の男たちも、世界各地にいましたし、子どもが産まれる心配がいらない関係というところに、魅力のある社会や個人がいたとしても、不思議ではないように思います。もちろん、現代判明しているように、性同一性という点で心と体が食い違うという場合も、当然あったに違いありません。
 
文学のジャンルでは、BLやGLといった分野は、非常に人気があります。それはマイナーな世界だとはもはや言えなくなっています。最年少で芥川賞を受賞した綿矢りささんの『生(き)のみ生のままで』は、女性同士の関係を描いていましたが、その美しさと心理描写には、感動を覚えました。私の一番好きなマンガもまた、そうした世界を描いています。
 
◆聖書にある罪
 
しかし、聖書には書いてある、とキリスト教の先生方は言います。同性愛は罪だ、と。教義からしてもそうなるし、排除すべきものだ、とするのです。こうして差別され、仲間から弾かれ、時に命さえ奪われる歴史がありました。いえ、受動態は止めましょう。キリスト者が、キリスト教会が、差別し、弾き出し、命を奪ってきたのです。
 
この事実から、目を逸らしてはいけません。このことから、逃げてはいけません。いまここにいるキリスト者は、キリスト教なるものがやってきたことの流れの中に、しっかりと立つ場所にいなければなりません。その流れに棹さすのか、阻むのか、それはこれからの私たちが決めることです。その前に、さしあたりその流れを受けなければなりません。
 
どうしてそんな残酷なことができたのか。聖書という権威に、罪だというふうに描かれていたからです。確かにそうなのです。だから、この罪の中にある人々は、罰されなければならない。教会から追い出さなければならない。キリスト教文化の中にある市民の中に留めておくことはできない。罪人を赦してはならない……。
 
それでは、他のことについては如何ですか。聖書には、他にも罪がいくらでも指摘されています。それら無数の罪から、あなたは免れているのですか。
 
私は恥ずかしい。山上の説教の基準からすれば、私は目をえぐって捨てなければならないし、私はもう何十本腕を切られているか知れません。同性愛のことをとやかく言っている場合ではないのです。私自身が、危機的な情況であることを、改めて思い知らされるのです。私だけですか。あなたは違いますか。
 
◆私たちの罪
 
「人の振り見て我が振り直せ」という諺があります。それほどに、私たちは自分の姿というものが見えません。逆に、他人の悪については、たちまち気がつきます。あの人は、あんなことをしている。ああいうことをするのは悪いことだ。しかし、自分がしていることについては、そのようには認識できません。自分を自分で許してしまうのです。また、自分のしている悪は、軽い小さなことだと、自分で決めてしまうのです。
 
そういうことは、私がいつもしていることなので、よく分かります。あるいは、それは私だけなのでしょうか。私が自分に甘く、これはやって当然だと判断を下し、他人のすることは、ひたすら間違っていると断定するだけで、ほかの皆さんは、そうしたことがなく、公平に自他を見つめていらっしゃるのでしょうか。
 
だったら、「私たちは」と称するのはやめましょう。そう、「私は」としましょう。私は、自分が罪に該当することをしていても、それには目を瞑っています。ただ、そういう私の汚さに、他の皆さんが気づいておきながら黙っているのだとしたら、皆さんももしかすると私と同じような思いを懐くことがあって、でも互いにそういうのが人間というものだよね、と示し合わせるかのように、指摘し合わないでいるのかもしれません。
 
けれども人間、やることなすこと悪いということでもないでしょう。自分は、この点については神の言葉をクリアしている。そう思えるところが、きっとあるでしょう。だからその点については、自分は正しいのであって、それをクリアできていない人のことを悪し様に言うことはできることになります。私はその点は問題ない。しかしあなたには問題がある。だからあなたは罪人だ――そんなふうに。
 
多くの人が犯している罪ならば、互いに刺激しないようにしておけば、暗黙に許し合えます。しかしごく一部の人が犯している罪については、多数派がそれを糾弾することができます。まるで「いじめ」のように、「普通そんなこと、しないよね」などと責め立てることができるのです。
 
他人に罪を負わせるが、自分では指一本そのことに触れず、歩み寄ろうともしないし、助けようとも、また共感しようともしないで、罪人だと責める。イエスが、あれほどファリサイ派の人々や律法学者を非難したのは、そういう部分ではなかったか、と思います。仲間内だけで示し合わせる欺瞞がそこにあり、少数派だけを糾弾するのです。この仲間内の示し合わせを「赦し」だと美しい言葉で飾るのは、きっと間違っています。
 
◆赦し
 
いえ、その逆こそが「赦し」なのではないでしょぅか。自分には厳しくするが、他人には寛容に振舞う。仲間内にはむしろ厳しい眼差しをもって接し、仲間の外の人々に対しては寛容に対する。あなたは罪人なのではない、と優しく接することこそが、「赦し」ではないかと思うのです。顔の知った者に対しては、なあなあで済ましながら、部外者には厳しく糾弾するというようなことではなく、自分の仲間に入れないでいるような人々に対して、あなたも仲間になりませんか、と呼びかける気構えが、私たちにはどうしても必要だと思うのです。
 
イエス自身が、そのようにしていたのではないでしょうか。福音書のイエスの姿を、どうか思い起こしてください。私はいま、それだけを告げておきます。具体的に例を挙げることはしませんので、どうぞまた福音書を読み直してみてください。
 
パウロもまた、自分が生んだ愛着のあるコリント教会には、厳しい対処をしました。しかし、それは涙を流すほどの痛みをもっての対処でした。そして、パウロは自分自身に対しても、厳しい態度であったのだと思います。身内に、そして自身に、偽善や欺瞞はないか。よく見張って、そこを赦すのではないようにしたいものです。
 
けれども、社会的に痛めつけられてきていたLGBTの人々に、私たちは味方だよ、とこの時期に、「寄り添う」のような言葉を使って近づくような真似は、考えものです。それは、ふだん貧乏な親類に冷たい態度をとっておきながら、その人が宝くじが当たったとたんに、自分は親しい者だ、と近づくようなものです。しかもキリスト教会は、LGBTの人々を迫害していた張本人だということまで、都合良く忘れてしまうように近づくのですから、なおさら質が悪いと言わざるをえません。その点、キリスト教世界は、LGBTの人々から「赦してもらわなければならない」立場にあります。このことを弁えておかなければなりません。
 
28:彼らは神を知っていることに価値があると思わなかったので、神は、彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
 
どうか、この「彼ら」を、他人事として、つまり私たちではない他の世の人々であるかのように読むのではなくて、「私たち教会」と読み替えてみてください。また、「神を知る」というのは、「知る」という言葉のもつ意味を鑑みて、「神を経験する」というふうに読んでみましょう。
 
私たち教会は神を経験することに価値があると思わなかったので、神は、私たち教会を無価値な思いに渡され、そのため、私たち教会はしてはならないことをするようになりました。
 
新しい世界が、見えてきたのではないでしょうか。
 
でも、これで答えが出たわけではありません。答えはまだないのです。だから私たちは、問い続けなければなりません。私たちも赦されなければならないし、私たちも赦さなければなりません。共に「赦し」の中にある人間同士であることはできないか、と問い続けなければならないと思うのです。
 
その基には、イエスの赦しがあります。イエスの赦しは、ちっぽけなものではありません。私たちはイエスの赦しをもう十分に受けたのだ、などとしてしまわないで、イエスの赦しを、もっと受けなければならないのではないでしょうか。私たちのまだ知らない力を、十字架を見つめ続けることで、受けようではありませんか。イエスの力は無限です。イエスの赦しを、私たちは、さらにまだ受けることが、できるのです。



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