ラジオをインターネットで

2023年1月5日

ラジオに縁のない人がいるらしい。若い人たちも、ラジオとは何だというような生活環境のようだ。
 
深夜放送というものが席巻していた時代、ラジオは孤独を慰める「声」だったし、勉強の友でもあった。「ながら族」とも呼ばれたが、作業をしながら耳だけ貸すことは、テレビに比すと容易だった。
 
もちろん、聞きながら勉強となると、集中できないのではないか、というような懸念も大人たちから起こり、そうじゃない、と言い張る若者たちの反発も当然だった。確かに気が散るのは確かなのだろう。しかし、BGMという言葉も一般的になっていたように、軽い音楽は作業能率をよくする、と感じる人は少なくない。いまでも、YouTubeにそのタイプの、音楽を一時間も二時間も流すものが人気である。川のせせらぎや鳥の音、というものもある。音があることが煩わしい人もいるが、音がないと寂しい私みたいなタイプの人も多いのだろう。
 
ラジオには、芸能人が語る番組も多い。ファンでありながら、毎週その人がラジオで語っていることを知らない、という場合もあることだろう。後から知って、ショックを受けることもあるみたいだ。
 
2010年、インターネット回線でラジオが聞けるような仕組みが始まった。radiko(ラジコ)の登場である。これは私にとり朗報だった。さらに、タイムフリーという聞き逃し配信もできてくると、ライブで聞けない場合も番組が聞けるとなって、実にありがたいことだと喜んだ。一週間以内ならば別の機会に聞けるのだ。但し、一度聞き始めたら一日の中で聞ききってしまわなければならず、合計時間が3時間という制約はある。
 
NHKラジオも翌年同様のシステムを始め、こちらは一週間以内ならば聞くのに制限はない。語学番組にも重宝するのではないだろうか。
 
ふとしたことで、関東の放送を知った後、私はradikoプレミアムを申し込んだ。全国のラジオ局が自由に聞ける。福岡は、比較的ラジオ放送局が豊かなようでありながら、民放AM局が二つしかない。FMも含め、よい番組が福岡で放送されていない、ということがままある。また、調べると、いろいろ興味深い人がパーソナリティを務める番組が、地方局でのみある、ということも知った。プレミアムで一日10円支払う価値は、私には十分あると言えた。
 
福岡にもFMはいくつかあるが、新しい局は私にとりあまり親しみがないし、地方性は豊かであるが、目指すパーソナリティはやはり関東に多い。あるいは、京都にいた頃に聞いた関西にもそれはある。大学の同期生が大阪の放送局に就職しているが、まだ現役で、阪神戦の実況中継でもおなじみである。ともかく、全国どこの放送も聞けるというのは、うれしい環境となった。
 
福岡でも聞けるが、NHKFMはもちろん、昔から一番馴染みがあり、高校生の頃からは、FM雑誌を購入しては、クラシック番組を中心に「エアチェック」に励んでいた。この言葉はもう今では知る人が少ないことだろうが、要するに「録音」である。
 
さて、インターネット回線でのラジオ放送は、録音できるのだろうか。実は、できる。以前使っていた無料のツールは、予約しておけばその時間に録音してくれた。但し、失敗することもあり、残念に思うこともあった。そのツールが、作者が更新しなくなったことで、一部が使えなくなった。というのは、ラジオ側でも、いわゆる仕様を変更することがあるため、元のプログラムのままでは録音できなくなる事態があり得るのである。
 
探してみると、別のツールが見つかった。こちらも無料であるが、これがさらに機能が格段に充実し、重宝している。その機能をいまここでごちゃごちゃ説明はしないが、一層快適にラジオが楽しめるようになった。真夜中の番組も、楽に聞ける。いまも、1か月前に録音していた、グールドの特集番組を流しながらこれを綴っている。
 
スマートスピーカーに、「アレクサ」と呼びかけて音楽をリクエストすることもできる。だが、これが最近、仕組みを変えた。リクエストしない曲も、抱き合わせで無理矢理聞かせるようになったのだ。そして、リクエストした曲だけを聞きたいならば、別の会費を払え、と迫るのである。これは多くの人に不評のようである。しかし、考えようによっては、これもメリットがないわけではない。
 
自分の求める曲だけを聞くのは快適かもしれない。だが、このアマゾンの魂胆にしてもそうだし、私の好きなラジオによる番組のよいところは、自分の知らない世界との出会いである。知らなかった良い曲やアーチストのことを知る機会があるのはいい。
 
いい時代になった。世界が拡がるのを覚える。しかしまた、情報の広まりばかりに気を取られている場合ではない。やはり深まりは必要であろう。そのバランスの中に、知的あるいは感性的好奇心が躍るようであると、また日々愉しみがあるというものである。そういう中で刺激されて、私の内から生まれる音楽というものもあり得るであろう。新しい歌を主に向かって歌うのである。



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