【メッセージ】洗礼者ヨハネとは誰か

2023年1月1日

(ルカ3:15-18,イザヤ40:1-11)

ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。(ルカ3:18)
 
◆洗礼者ヨハネへの期待
 
マルコによる福音書では、特にその冒頭から、洗礼者ヨハネが登場します。今日は、もう少し説明をつけたルカによる福音書を読みます。ルカは、ご存じのようにクリスマスの記事を熱く語っていますから、洗礼者ヨハネの記事は3章からとなります。
 
それにしても、洗礼者ヨハネとは何者なのでしょう。いえ、その出で立ちや言葉については新約聖書によく記されているのですが、どうしてイエスの登場に先立って、現れる必要があったのでしょう。もしもヨハネがいなくても、イエスの働きがあれば、救いへの道は拓かれたのではないでしょうか。ヘロデ大王に楯突いて、いわば犬死にしたようなヨハネに、どれほどの意味があったのか、福音書は必ずしも明らかにしているようには見えません。
 
マルコの1章を見るだけでも、ヨハネについては、イエスより先に神が使わす「使者」であることや、「主の道を備え」る役割を果たすことが書かれています。「荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のもその仕事でありました。その衣食は「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、ばったと野蜜を食べていた」とされています。語ったことについては、ヨハネは自分がイエスの靴ひもを解く値打ちもないくらい、要するに比較の対象ではないことや、水での洗礼どころか、イエスが「聖霊で洗礼をお授けになる」と言っています。これらのことは、(こちらの名は洗礼者とは関係がありませんが)ヨハネによる福音書が若干異なる表現が多いとはいえ、各福音書に概ね共通していると言えましょう。つまり、福音書にこの洗礼者ヨハネの存在は、欠かせなかった、ということです。
 
そこには、悔い改めのメッセージがありました。そして水による洗礼を受けて、人は生まれ変わらなければならない、と人々に教えていました。この洗礼という言葉の響きには、「水死する」という意味合いが含まれているといいます。これまでの自分に死ぬということが、洗礼の儀式にこめられていたことは、私たちもよく知る必要があろうかと思います。こうして洗礼によって、新しい人生を、神の前に始めるように、と促されます。こうして、イエスが実際に現れる前に、人々の心を神の方に向き直らせていた、という説明がなされることがあります。「道を備えよ」と叫ぶ声により、人々に福音を受け容れる準備をさせたのだ、というわけです。
 
そう、普通「福音」というと、イエスからこそもたらされることのように見られています。この言葉は「良い知らせ」という言葉からできており、英語はシンプルに「グッド・ニュース」となります。聖書ではしばしば「福音する」のような動詞の形で用いられ、良い知らせを届ける働きを意味することにもなります。パウロの「福音」はまた濃い味わいのある表現となり、イエスの十字架と復活を身に受けるようなところにまでどんどん走って行きますが、今日はその方面には走らないようにします。しかし、ルカはこう記しています。
 
18:ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
 
洗礼者ヨハネが、すでに「福音」を告げ知らせているのです。今日はむしろここに心を向けて、聖書の言葉を皆さまと分かち合いたいと願います。
 
◆前座
 
19世紀イギリスに一時、「赤旗法」という法律がありました。赤い旗、もしくはランタンを持った人が、自動車の50mほど前を歩かねばならないというものです。自動車は当然、人間の歩く速さを超えて走ることはできませんでした。
 
自動車がいまから通りますよ――歩行者や馬車にそれを伝え、安全を図るのです。馬の前では自動車は停止しなければならず、馬がいれば煙や蒸気を出すことが禁じられたのだともいいます。
 
アメリカにも同様の法律があったといいますし、日本でも京都市電にそういう主旨の制度があったともされています。なんとも呑気な時代ではありました。
 
1866年6月、ザ・ビートルズの日本公演が開催されました。そのステージには、ビートルズより長い時間、初めに日本のバンドが演奏をしていたことが知られています。ザ・ドリフターズもバンドでしたから、その場に立ったということも有名です。内田裕也やブルーコメッツもステージにいたなどという情報もありますが、そこにマニアックに走ることはやめておきましょう。
 
観衆が求めに求めていたビートルズが登場する前に、こうした「前座」が場をつなぎます。ウォーミングアップのように音楽の場をつくるのか、顔見せや売り込みの目的があるのか、主役の時間が短いので場をもたせるためなのか、よく分かりません。紅白歌合戦は性格は異なりますが、最後に登場する歌手は「トリ」、最後の最後は「大トリ」などといって、大物が起用されることになっていますね。そう言えば、映画のエンドロールでも、主役以外の大物が最後を飾ります。
 
洗礼者ヨハネも、イエスの前座のようなものなのでしょうか。そうなのかもしれません。でも、喩えるにしては、あまりに現代的でもありますし、曖昧な理解になってしまいそうです。
 
◆エリヤ
 
その時代の人々は、イスラエルの王となるメシアが来るということを信じていたそうです。祖国が破壊され栄光のイスラエルが滅亡したのは、神の故ではなく、信じなかったイスラエルの民の故だと理解しました。ただ、神は救い主を送ってくださる。神の民イスラエルを、神は見捨てておくはずがない。そんなことを夢見ていました。
 
しかしそのメシアも、先立って来る者があって、メシア来臨のしるしとなる、と考えられていました。それがエリヤでした。イエスのことさえ、もしかしたらそのエリヤなのかも、と思っていた人がいたことを、福音書は証言しています。
 
預言者エリヤについての細かなご紹介は、いまは省略します。イスラエルの偉大な預言者だった、と理解して進みます。いまや救い主を待ち望むユダヤの人々は、救い主が現れる前に、エリヤがまず来る、と考えていました。どうしてでしょう。それは、なんといっても、旧約聖書の最後を飾る、マラキ書3章の預言の影響が大きいものと思われます。
 
23:大いなる恐るべき主の日が来る前に/私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 24:彼は父の心を子らに/子らの心を父に向けさせる。/私が来て、この地を打ち/滅ぼし尽くすことがないように。
 
これで旧約聖書は閉じられた、正にその箇所です。主の日が来る前に、エリヤを遣わす、とマラキが告げたその言葉を信頼したのです。
 
新約聖書でも、エリヤが出てくる場面があります。それは、私が重視した、いわゆる「変貌山の出来事」の場面です。イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて山に登ります。すると、イエスの姿が輝き変化し、エリヤとモーセがイエスと語り合うのを三人は目撃します。しかし、気づけば、そこにいたのはイエスひとりでした。
 
8:弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた。
 
山を下りるとき、イエスが、死と復活について話したので、また弟子たちは混乱します。その混乱の中で、イエスに質問が飛びます。
 
11:そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
 
まずエリヤが来る。これは先に申し上げたように、救い主メシアに先立ってエリヤがまず来る、という人々の信じていたことに由来するものです。ただ、いま弟子たちは、初めて山の上でエリヤを見ました。だとすると、弟子たちにとっては、イエスと行動を共にしてきた「後に」、エリヤを見たことになります。お分かりでしょうか。弟子たちの体験は、イエスが先で、エリヤが後だったのです。福音書の記者は、イエスこそキリストだと言いたいわけですから、その構図に則るならば、この弟子たちの疑問は尤もです。
 
13:しかし、言っておく。エリヤはすでに来たのだ。そして、彼について書いてあるとおり、人々は好きなようにあしらったのである。」
 
この場面を結ぶイエスの返事は、エリヤはすでに来たのだ、というものでした。エリヤからキリストという順番は保たれているよ、ということでした。もちろん、それが洗礼者ヨハネであるということは、読者には周知のこととなっています。このヨハネが、イエスを導く赤い旗のように、ちゃんと役割を果たしていたのです。イエスが続いて来るということが、ヨハネの知らせる「良いニュース」であっても、よいのではないでしょうか。
 
ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、
民衆に福音を告げ知らせた。(ルカ3:18)
 
◆イザヤの預言
 
このヨハネの働きは、旧約聖書の中に根拠があった、というのが、新約聖書の強みでした。新約聖書は、ただイエスをキリストだと決めつけているのではありません。すべて旧約聖書で言われていたことが、ついに実現したということなのだ、と根拠づけるのです。
 
新約聖書への引用は、詩編とイザヤ書が群を抜いています。イザヤ書に、ヨハネのしたことがちゃんと書いてあるのだ、と捉えるのですが、そのイザヤ書にも目を通しておきましょう。イザヤ書40章、それまでの裁きの厳しい口調から、明るい前向きな筆致に変わるのは、ここからです。
 
3:呼びかける声がする。/「荒れ野に主の道を備えよ。/私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ。
 
イザヤの頭の中には、捕囚に遭ったバビロンから神殿の待つイスラエルの地に帰還する民の姿が浮かんでいたのかもしれません。これをメシアの訪れのイメージで、新約聖書がここを引用することがありました。イザヤの意味はこうだ、と決めてしまうようにも見えますが、後から振り返ってあれは実は……と説明するのは、もしかすると少し狡いとお思いの方もいらっしゃるかもしれません。後からなら何とでも言える、などとも言われそうです。確かに人の心についても、あのときは実は云々と言い訳をするのが私たちの日常です。
 
けれどもキリストの弟子たちは、そしてキリストの教会は、豊かに旧約聖書をそこに重ねて、イエスの出来事を読み解いていったのです。新しいイエスの登場を、喜んだのです。
 
◆福音の前にあるもの
 
1:「慰めよ、慰めよ、私の民を」/と、あなたがたの神は言われる。
 
イザヤが神から受けた言葉は、民を慰めよ、というものでした。それは確かに福音、つまり良いニュースであったことでしょう。「エルサレムに優しく語りかけ」るように、神から使命を受けています。だから、「荒れ野に主の道を備えよ。/私たちの神のために/荒れ地に大路をまっすぐに通せ」ということも命じられたわけです。
 
この役目を、洗礼者ヨハネは受けました。でもそれにしては、ずいぶん厳しい裁きについてヨハネは語っていることがありました。ここでも、自分に続いて来るメシアは、「麦打ち場を掃き清め、麦は倉に納めて、殻を消えない火で焼き尽くされる」という結末をもたらすことを挙げています。けれども、やはり人々一般には、慰めを贈っていたのです。
 
18:ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
 
この福音は、ただ「なんでもしてよいよ」とか「あなたは何もしないでそのままでいいのだから」とか言っているのではありません。近年、教会がソフトさを示そうとして、そのような「福音」を投げかけることが増えているように見えますが、なんでもアリなのではないはずです。イザヤはもちろんのこと、洗礼者ヨハネにしても、厳しいものを前提としているのは確かです。
 
但し、その厳しさというのは、修行のようなものではないし、禁欲の限りを尽くせというようなものではありません。洗礼者ヨハネの場合は、「悔い改めよ」でした。それは「反省せよ」ということではありません。自分でなんとかするわけではないのです。その代わり、形式的に洗礼を受ければ救われるということでもないし、イエスは主です、と口に出しさえすれば万事OKだと言っているのではないはずです。
 
主の道を備える役割を受けたヨハネは、荒れ地のような人々の心の中に、一筋の道を通そうとしています。荒れ地のままではないのです。荒れ地にはすでに道があります。何か苦労して整地するようなタイプのことを言っているのではないだろうと思います。「悔い改め」とは、ひとつには方向転換をすること、のように捉えられるべきものだと言われる場合があります。別の方向に、道が敷かれているのかもしれません。だから、「何もしないでそのままでいい」ということではないわけです。
 
◆意を表明すること
 
洗礼者ヨハネは福音を告げ知らせました。ルカがそう記しています。このヨハネは、その後非常に悲しい運命の道を歩みます。ファリサイ派やサドカイ派といった宗教者たちに対して、厳しい批判をしていたくらいなら、まだよかった。危害は及ばなかったからです。しかし、領主ヘロデ(ヘロデ大王の子、ヘロデ・アンティパスと思われる)に、その結婚のことで律法に違反していることを堂々と言ったために、首を斬られ殺されてしまいました。
 
いわば王に対しても、臆することなく、正しいことは正しい、正しくないことは正しくない、と主張したのです。そのために、命を失うことになるかもしれないと考えなかったのでしょうか。私のような者なら、その先どうなるかを考えて、黙っておいただろうと思います。街で素行の悪い人を見たところで、注意をしに行くようなことのできない人間です。電車の中で迷惑に騒ぐ人たちに文句を言うでもなく、傍若無人に振舞う年配の女性グループに一言言うようなこともできません。しかし、ヨハネは然りは然り、否は否と、何の躊躇いもないかのように言い放ちました。
 
ヨハネは神の言葉を語る預言者だったのだと思います。神が共にいる。さて、神が守るという信仰の故にできたのでしょうか。旧約聖書のダニエル書で、ダニエルの友三人が、ネブカデネツァル王に偶像を拝めと迫られたとき、神は自分たちを守る、だがたとえそうでなくても、拝みはしない、と宣言したことを思い出します。この三人は助かりましたが、ヨハネは殺されました。いえ、そもそイエス自身が、十字架でなぶり殺しにされたのです。イエスは、このヨハネよりさらに酷い晒し者の刑で長い時間苦しめられたのです。
 
でもいまは、ヨハネに戻ります。ヨハネの勇気たるや、私たちの及ばない次元のものでした。しかしまた、それはバカだと思う人がいるかもしれません。いてもよいと思います。うまいことやっていればよいのに、死なずに済んだのに。
 
それに比べると、現代はどうでしょうか。言論の自由という折り紙がついています。基本的人権というものを人類は立ち上げてきました。もちろん、国や地域によっては、私たちが思うようにそれは確かなものとは考えられておりません。しかし、概ね現代ならば、それなりに言論は守られるべきもの、という理解が進んでいます。
 
ヨハネの時代には、そんなものはありませんでした。19世紀半ばに生まれた言葉ですが、「ペンは剣よりも強し」という格言があったわけでもありません。けれども、ヨハネは身を張って、それを証しした、と見てはいけないでしょうか。
 
いま私たちは、発言することについて、それが人を貶めたり、人の権利を奪ったりするようなことがなければ、それなりに適切に保護されることになっています。もちろん、他人を傷つけるようなことを言い並べる自由があるとは言えませんし、自分の発言には、自分なりに責任を負う必要があります。けれども、たとえば私たちが聖書のことを誰かに話す、それを引っ込める理由はなくなります。正しいことは正しい、と主張することは、少しの勇気を以て、できるかもしれません。そう思いませんか。
 
できるかもしれません。私たちなら、できるかもしれません。炎上するかも、とただ怯えているよりも、言うべきことは言うことができるかもしれません。一人の小さな声が響かないならば、同じ志をもつ者たちがいくらかでも声を重ねて、響かせることができる世の中でありうると思うのです。
 
◆あなたも福音する
 
18:ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
 
今日は、この言葉の周りをぐるぐる回ることにしました。ヨハネは「福音」を告げた、そうルカは記しています。パウロが言うような、イエスの十字架と復活の福音ではありませんでしたが、それは確かに「福音」でした。ヨハネ自身が救い主ではありませんでした。ただ、荒野で叫ぶことによって、人々の目を惹くことができました。イエスがその後に来てくださることを信頼していましたから、これから救い主が来るぞ、と叫んでいました。ほら、この未来に、メシアが来るのだ、救いをもたらす方がそこにいるのだ、と指さすようにして語ることができました。
 
霊的な感受性の豊かな方は、もうお感じになっていたことでしょう。そうです。あなたはこのヨハネなのです。ヨハネになれるのです。
 
私は救いそのものではありません。けれども、イエス・キリストは救い主です。私はいまここにいますが、やがてキリストが来られます。それはどんな方かというと、福音書にまず書いてあります。幾人かの弟子なども記録しています。旧約聖書の中にも、このキリストを映しだして書かれた箇所がたくさんあります。そして、私の罪のために、十字架刑という、残虐な死に方をなさいました。いえ、人が殺したのです。しかもその十字架にイエスをつけたのは、この私でもあるのです。
 
しかし、イエスは蘇りました。私の罪を赦してくださいました。さあ、この十字架に、自分の罪を見上げてくだい。罪も一緒に十字架につけられて、その罪状が無罪とされているではありませんか。このイエスを見てください。十字架のイエスを見てください。そのイエスが復活したのを見てください。そうすればもう、悲しむ必要がなくなりますから。こうやって私がイエスに出会って、人間が変わったのです。誰でも、変わることができます。聖書が、そう言っています。ヨハネが、そのようにイエスを指さしていたのです。
 
あなたは、ヨハネなのです。



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