明日への希望

2023年1月1日

喜ばしいことが身の回りにいろいろある。感謝の思いが与えられる。自分の思いや行いに拘わらず、それぞれの人が、未来を手にして進んでいく。ひとの喜びを、自分の喜びとして受け取ることができるということが、うれしい。
 
「今年こそ」という思いが、悪いはずがない。明日に希望を懐き、前向きに歩いて行く。その気持ちがあれば、苦しむことはない、とも言える。
 
だが、とてもそんな気持ちになれない人もたくさんいる。例は挙げない。命や財を失う不安に苛まれている人もいるし、現にその瀬戸際にいる人もいる。どうにも先に希望が見いだせない、ということだってあるし、必死で助けを求めているが何の反応もない状態にいる人もいるのが現実だ。
 
キリスト教会という名は、なんとなく建物を指す言葉だと思われてしまうが、本来は「人」表す。地下組織のように存在するしかない国や地域は今の時代にもある。発生当初は、なおさらである。同じ信仰をもつ仲間が集まって、互いに励まし合ったり慰め合ったりしていたと思われる。また、そのときには信仰内容を確認する、という営みも欠かせなかったことだろう。
 
教会として集まることが、この3年間、制限されてきた。最初は本当に集会禁止という措置であったが、文明の利器は、なんとか通信技術を用いて、礼拝の場につながる工夫を見出した。ただ、その手段をもたない人もいて、放り置かれているような状態が続いている場合もある。
 
毎週集まって互いに直接顔を見合わせているときには、その場に自分もいて、気遣いもあり、そうした場における役割を繕うことが必要でもあることから、なんとなくそれを肯定するしかないものである。だがひとたび距離を置いてみると、それまで気づかなかったことを考えるということもある。教会の中が、それまでとは違った様相を帯びるということも少なくなかったのではないかと思われる。
 
新しく洗礼を受ける人は、恐らく減少していることだろう。何しろ集まれないし、それまでのように、ふと教会に立ち寄って礼拝に参加する、というような機会が激減している。教会そのものも、積極的な伝道活動がしづらくなっているのが実情である。否、そもそも伝道活動をしていない、というところも多々あるような気がする。
 
そうでなくても、コロナ禍以前から、教会の閉塞感はただならぬものがあった。少子高齢化社会の中で打開策を見いだせず、仲間だけの関係に閉じこもり気味なあり方も問題視されていたし、そのうえ特にプロテスタント側は、細々とした教会に細分化されていたために、行く末が懸念されていたのだ。
 
いわゆる献身者の減少も著しく、牧師の平均年齢は、世の退職者の年齢を大きく超えていった。新しく牧師になるという人材の減少も激しく、そうなっていくと、いわゆる「無牧」と呼ばれるような、牧師不在の教会がどんどん増えていくこととなった。教会としての統率がとれなくなるケースが多くなるほかに、こういうふうになると、新しく牧師になる人物の質の低下が著しくなってゆく問題がある。私の目から見て、その傾向はこの四半世紀でも酷い情況であると感じる。
 
暗い話題から2023年という始まりを飾ってしまい、お読みの皆さまには申し訳なく思うが、明るさがなくなってしまうようには思わない。人間がダメでも、神は変わらない。イエス・キリストは、昨日も今日も変わることがない。聖書がここにある。祈る自由がある。
 
一人ひとりが、何か明るい明日を胸に懐いているとすれば、私たちが絶望するにはあたらない。ただ、辛い立場の人々のために何かできることはないのか、それは頭に置いておきたい。否、祈りたい。否否、祈る。キリスト者は、その思いを祈りという形で、神にもっていくことができる。それしかできなくても、それができる。今日から、その一歩を歩くことができる。許されている。さあ、顔を上げよう。我が魂よ。



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