異文化理解

2022年12月30日

ある事情から、急遽晩秋から、中3の受験生に国語を指導することになった。経験はあるが、この時期に受け継ぐことには非常に悩んだ。生徒にとり、あまりよいことではないと思ったからだ。だが、とにかくやるしかなかった。
 
国語の力を、ここから伸ばすというのは至難の業である。小さな頃から絵本にたくさん触れておくことが大きな影響を与える、それが基礎力をつくる、というのが私の持論である。成績別のクラスではあるが、それにしても言葉の感覚や語彙などの言語能力は、個人で格段の差がついている。国語の入試問題は、しかし容赦なく、高度な国語力を要求してくる。
 
その教材として、「異文化理解」について述べている文章を読む機会があった。文章は、その都度ただ課題に向かうのではなくて、論理や筋書きについては、ある程度決まった路線というものがあることを弁えておくことが必要である。「異文化理解」というテーマも、ありがちなものである。定番となる考え方を弁えておくことにより、読み解くことはさほど困難ではない。
 
その文章のことはさておき、この「異文化理解」ということについて少し触れたい。それは、生徒にも話したことを含むものである。私たちが英語を学ぶのも、この異文化を理解することを大きな目的としていることに気づきたい。その「異文化」とは何か。外国のことか。いや、私は京都に住んでいたが、生まれは福岡である。十分に異文化を感じた。
 
異文化を知るということは、自分の文化を外から見るということに通ずる。自己認識のためにも必要である。私が触れる他者と共に生きて行かなければ、私は社会で生きていけないだろう。その他者から私はどのように見られているか、ということについて無頓着でいることはできないはずだ。そうでないと、私中心で互いの関係を押し通そうとするようになるかもしれず、互いにそのようにしていては、関係が成り立つことができないからである。
 
そこで私は、このように話した。自分が当たり前だと思っていることは、相手にとっては当たり前ではないだろう。相手が当たり前だと思っていることも、私にとっては当たり前ではないに違いない。そのことを知ることは、共に生きていくためには必要な過程ではないだろうか。これもまた、ひとつの異文化理解なのである。
 
そうなると、結婚というものも、実にそういうことであることに気がつく。互いに別々の文化で生まれ育ってきた二人が、一緒になって新たにひとつの文化をつくっていくためには、衝突することがあるだろう。そこで、譲り譲られ、受け容れ受け容れられることで、それぞれが変化することを必要とするだろう。それは、何かとの「出会い」を経る、ということでもある。「出会い」は、自分が変わる契機となるであろう。人との出会い、本との出会い、研究対象との出会い、いろいろ出会いの相手はいてよいことになる。
 
神との出会いもまた、異文化理解のひとつのアスペクトであるだろうと思う。但し、人は神と出会うとき、神にだけ変わってほしい、と思いがちである。つまり、自分の願いを叶えてほしい、そして願いを叶えてくれない神はいらない、と発想するのである。よくあることではないだろうか。
 
神と自分との関係がそこにできる。そのときに、変わるのは自分の方である、というスタンスをとるのが、キリスト教信仰の根柢にある特質であろう。そしてそのとき、絶大な報いが待っていることを期待できる、というのも、この信仰の大きな愉しみであるに違いない。



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