教会学校は大切であるが

2022年12月28日

教会学校。英語の頭文字からCSとも呼ばれる。日曜学校という呼称もあったから、そのときはSSとも言われた。教派や教会により、そのスタイルは様々である。子どもが多く教会に来ていたころは、幼児・小学生・中学生・高校生と分かれることもあり、小学校も上級生と下級生と別々になることが普通だった。信徒の子ももちろんいたが、その友だちや近所の子もたくさん来ていた。中には、教会というところがきちんと躾をするところだという信頼で、親のほうから子どもたちを行かせる家庭もあった。もちろん、いわゆる未信徒家庭である。
 
教会学校は、学校という名が付くが、ひとつの礼拝である、という見方が必要とされた。やがて子どもたちだけのために一時間も早く教会に来る親たちの不自然さ、またそのまま親を待つために昼間で教会のどこかで遊んでいなければならない子どもたちの不合理性などを鑑みて、教会学校も通常の礼拝と同じ時間帯から始める、という工夫もなされるようになった。
 
そのとき、礼拝開始は大人たちの通常の礼拝に参加し、説教から子どもたちは分かれて、教会学校教師によるお話やワーク活動に勤しむ、ということがあった。そして最後はまた一般の礼拝に戻って、祝祷を受けて終わる、というような形をとるのだった。
 
教会学校教師は、牧師の説教は聞けない。だから録音したものを後で聞くなどの措置をとり、教師自身は、子どもたちの牧者として大切な役割をその礼拝で担うということもあったし、もうそちらはなしで済ますということもあった。私は、そういう形での活動を数年間続けてきたことがある。別の教会では、スタッフが別に少し与えられたので、月に一、二度担当ということもあった。
 
小さな子どもたちは、緊張の時間が長くは続かない。お話も、コンパクトに、そして子どもの心に届くような内容や言葉を選ぶことになる。子どもたちの日常抱える問題を軸にすることもあったが、概して聖書のお話を理解してもらおうという場合が多かったように思う。
 
子どもはたいてい、お話は好きである。だから聖書の物語も、そのまま話して基本的には大丈夫であった。但し、聖書の本文を朗読すればよい、ということはないので、背景や理由その他、説明を十分つけて膨らませて話すのである。聖書の解説、と言ってもよい。そして、それだけで終わるというのも悪くはないのだが、普通は、そこから共通理解に立つ教訓を得ることにしていた。つまり、今日のこの箇所から、こういうことを学びました、私たちもこれこれこのようにしましょう、という導きを与えるのである。
 
聖書を単純化してしまうかもしれない。ある意味で誤った理解でまとめてしまうかもしれない。しかし、子どもたちの場合は、聖書へのオーソドックスなアプローチがひとつ、やはり必要である。どんなにベタであろうとも、まずは聖書を「普通」の形で伝えることは、教会「学校」の務めであるに違いなかった。
 
では、大人たちはどうであるのか。さすがに人生経験が違うし、聖書をそれぞれがそれなりに理解している信徒への説教となると、この子どもたちへ対するあり方だけで終わるわけにはゆかないだろう。もちろん、それが悪いということはないが、あまりにベタな「説明」となると、これは教会での「説教」と呼ぶことが難しくなる。ああまた知っている、あの話だ。見慣れたテレビ番組の再放送のように、先々を思い出しながら聞くばかりとなると、殊更に新しいものを感じ取るようなこともしない。そこで、それなりの「おとな」の心に楔を打ち込む、あるいは心に響く、そうした神からのメッセージは、聖書絵本を読み聞かせることとは明らかに異なるということになるだろう。
 
では礼拝説教は、難しければよいのか。学問研究の発表の場ではないから、語る者だけが理解できるような高度な内容を並べ立てても、それは聴く者の心に届くものはないだろう。その研究発表から、突然教訓めいたものを結論としても、どうつながるのか、何故つながるのか、それを感じ取る者が果たしているのかどうか、というのも、「説教」にはならない。
 
「説教」とは何か。これを考える哲学が必要となる。また、考えたところで、それが一意的に決まり、すべての教会でこのようであるべきだ、とするのも、よろしくない。それぞれの場で、それぞれの時に、相応しいメッセージがあるのだろうと思われる。その意味では、教会学校のお話は、多くの場合、普遍的である。特別にその場に悩みや問題を抱えた子がいて、それを共に考え、共に祈るという場合は別として、教える内容そのものは、基本的に画一的である。小中学校の授業には、方法こそ異なれど、その内容自体は各地で同一であるべきなのと同様である。
 
だから、礼拝説教のひとつの条件としては、語る者が「知る」ところから語られるということが基本になるだろう。「知る」とは、聖書的な言葉の使い方であって、全身全霊で深く体験する、というような意味を含むものである。もちろん子どもに対して語るときにも、真摯で正直であるべきなのは同じなのだが、通常の学校の教師は、教えることすべてにわたり全人格を含めて熱く伝えるわけではない。ここはとにかく覚えよう、で済ませる場合も正直あるものだ。画一的な教育とは、そのように、誰もが同じように教え伝えることができるという内容である必要もあるわけだ。教会学校の場合も、それに近い部分はある。教師の側が信じられない部分があっても、信じましょう、と結ぶ話でなければならないし、そのように公言することによって、教師のほうが、信じるようにしよう、と襟を正されることもあると思う。教えることにより教えられる、というのは、教育の常識である。
 
但し、礼拝説教で、自分の心にもないことを言うわけにはゆかないだろう。否、それはあるような気がする。牧師の中には、言っていて苦しい場合もあるのだろうか。あるいは、そもそもそういう箇所はわざわざ聖書の中から選ばないのが通例であろうし、聖書箇所に含まれていても、触れずにシカトするようにうまくやっているのかもしれない。だが、それはまだいい。可愛いものだ。人間の弱さというだけで済む。
 
他方、自分はその聖書の世界に住まうものではないという前提で、聖書を説明し、聴衆にだけ、聖書にこのように書いてあるので、このようにしましょう、と言えば説教だと勘違いをしている場合もあろう。こういう語りが毎回続いているのを聞いていて、なんとも気づかない会衆は、良く言えば騙されている。悪く言えば、聞く耳がない。あるいは、目を覚ましていない。心が鈍くさせられているのだ。
 
くれぐれも誤解して戴きたくない。私には、教会学校のことを悪く言うつもりは微塵もない。教会学校は大切である。だが、それと同じ心づもりだけで礼拝説教ができるわけではない。何よりも、語る者本人が、神の言葉につくりかえられ、神の前に独り立つ体験を基に、与えられた命が必要である。それのある説教者の言葉は、どこをどう切っても、命が滴るものである。
 
だから中には、子どもの前で、そのような語りができる教会学校教師もいることも分かっている。私も、何度かではあるが、さらけ出して語ったことがある。子どもたちにはあまりよい時間ではなかったかもしれないが、それでも、大人の本気というものを、子どもたちは感じる能力をもつであろう。話の内容は伝わっていなかったかもしれないが、その場合には、ハートが伝わっていたのではないか、と思いたい。いやいや、伝わったのだろう、などと語る側が決めることはできない。ただやるだけのことをやったに過ぎないとすべきであろう。
 
さて、錯綜した語りで伝わりにくかったかもしれないが、大人も子どもも、それぞれのあり方の中で、神を礼拝するというひとときが、とにかく大切であることには違いない。



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