2022年12月14日

いろいろと不満というものはあるだろう。それと戦うということは、もちろん悪いことではない。また、それが誰か他人のために戦うというのであれば、ぜひともやるべきだ、というような情況は確かにある。
 
しかし、自分のプライドや感情のために、そして自分だけの正義のために戦うというのは、いろいろな意味でもったいないものである。エネルギーのロスである。損失が発生するかもしれない。たとえ勝ったとしても、実入りがないかもしれないし、よけいに悪いことへと向かうことになるだけかもしれない。
 
そうなると、自分の関心のあるものに閉じこもってしまうことにもなりうる。対話も発展も望まない、狭い自己満足が平和である、と孤高を気取るだけになる可能性も大いにある。できるだけ当たり障りなく人と交わり、さほど自分の考えを通そうともせず、折り合いをつけてしまうほうが、楽であるとも言える。
 
それでも、問うてみたいことはある。残された時の中で、どうしても譲れない大切なものがあるだろうか。そのために時間を使うということを求めることはどうだろうか。
 
それは、自分ひとりの問題である場合もあるだろうが、誰かと分かち合えるならば、もっと大切にすればよい。その誰かと共に感謝し、また感謝されるような生き方を生きていくならば、そんなことはめったにないことだ、という有り難い思いに喜ぶことができるのではないか。
 
イエス・キリストの十字架を、そこでまた見上げる。これはめったにないことだ。ただ一度のものだった。だが、その一度が、永遠という時をもたらした。
 
先日、「今年の漢字」が書かれる場面が、清水寺から中継されていた。世間の人々が投票するのであるから、多くの人が思い浮かべるという点で、通俗的な結果しか出てこないかもしれないが、2022年は「戦」であった。互いの啀み合いのような戦争というよりも、ウクライナに対するロシアの一方的な攻撃に対してウクライナが戦っている、という図式が私たちに伝えられている。守るための戦いである。だからまた、そのために金が必要だ、という論理を今こそ、の勢いでもちかける政治家も現れることになるのだろうか。
 
ウクライナ当地の人々の困難を覚えるが、祈るほかには何もできない。誰かが、つまりどこかの国が、これを止めるために入れないものなのかと悔しい思いが走る。
 
単純に、悪魔と神との戦いのように考えるのはよろしくないが、私たち人間は、悪魔と戦わなければならない。人間だけでは勝てないから、神を信頼することで、少なくとも悪魔には負けないようになるであろうか。黙示録のようなおぞましい描写を、どのように引き受ければよいのかもよく分からないが、逃げてばかりいた自分が、戦う場面にはたしていることになるのかどうか、それさえもよく分からない。
 
だが、祈る先にあるものは、主の戦いである。



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