【メッセージ】誰が誰を祝福するのか

2022年12月11日

(エフェソ1:3-4, ルカ2:22-38)

私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。(エフェソ1:3-4)
 
◆祝福する
 
「祝福」という言葉を聞いて、多くの人がまず思うものの一つに、結婚式があると思われます。もちろん子の誕生も祝福ですが、それは内輪のもの。結婚式は、知人を招き、多くの人が一堂に会して拍手を贈ります。
 
聖書においても、この婚礼というのは重大な儀式のひとつで、一週間も二週間も続くというように、よく解説されています。ヤコブの結婚の場合もそうでしたし、近所の人々を招いての祝い事というのは、娯楽のなかった昔においては、本当に大きな慶びであったことでしょう。イエスはカナの婚礼で最初の奇蹟を行った、とヨハネによる福音書は記しています。
 
近年、この結婚式なるものが危ぶまれています。結婚しないという生き方をする人が増えていたり、結婚したくてもできないというケースが多くなったりしているほかに、式場で挙げないという選択も増えて、結婚産業の危機感は半端ないだろうと思います。名古屋地方では、婚礼について派手である文化があるとも聞いていますが、果たして現状はどのようでありましょうか。
 
新郎新婦への祝福の拍手。人々はしばしば腰掛けた形で、立った二人を祝福します。祝福について日本語では「賀する」という言葉もありますが、私のイメージでは、相手を立派と称える場面に似合うような気がするのですが、これは個人の感想なので、あまり信用しないでください。ただ、目下の者を祝福する、というようなイメージより、相手を立派だね、という気持ちで祝福する気持ちは、どこかあるのではないか、と感じるのですが、如何でしょうか。
 
◆聖書の「祝福」
 
ところが、聖書を少し読み慣れてくると、言葉の感覚が、それまでとは違ってくる場合がよくあります。「愛」という言葉にしても、聖書に浸ると、それまで思い描いていた「愛」とは異質のものをこそ、本物の「愛」だと思うようになります。第一、日本語の「愛」は「愛着」のように、元々ものごとに執着する意味が本来でしたから、「博愛」のような意味は、非常に新しいものであるには違いありません。
 
聖書では、神が私たちを祝福する、と言ったり、父親が息子を祝福する、と言ったりする場面が多々出て来ます。「祝福」自体に。上の立場の者が下の立場の者を祝福する、という構図が前提されているように窺えるわけです。それで、信徒となれば、「祝福」はいつの間にか、そのように上から下になされるもの、あるいは「恵み」のようなこととして、思い込むようになっていくような気さえするわけです。
 
創世記では、そもそも神が人を祝福の内に創造するというところから始まります。義人ノアも祝福され、信仰の父アブラハムももちろん祝福されています。しかし、どうにも後味の悪い祝福というものがあります。イサクが、息子のエサウを祝福しようとした場面があるのを思い出します。しかし妻リベカは、弟のヤコブを溺愛していたので、策を練り、目の不自由な夫イサクを騙す形で、エサウを出し抜いてまんまとヤコブが祝福されるようにしてしまいます。
 
エサウは父に言った。「あなたには一つの祝福しかないのですか、お父さん。私を祝福してください。この私も。お父さん。」エサウは声を上げて泣いた。(創世記27:38)
 
長子の権を軽んじたエサウに落ち度がなかったとは言いませんが、取り立てて悪事をしたようには見えないエサウにとり、余りに理不尽で、悲痛な叫びが聞こえてくるように感じます。イスラエルの正統な歴史はこのヤコブを通して継続することになり、エサウは、エドム人という(聖書の観点からすると)亜流の民族の先祖となりました。
 
そのヤコブがまた、波瀾万丈の生涯の後、エジプトで死を迎えますが、そのときエジプトの宰相となっていた、息子ヨセフの二人の子を祝福する場面も印象的です。ヨセフは、長子マナセを、上位の手である右手で祝福してもらえる位置に立たせました。が、ヤコブは故意に腕を交差させ、弟のエフライムを右手で祝福します。エフライム族の住まうこととなったエフライムの地は、肥沃で豊かな産地となっていきます。
 
後に、イエス・キリストが、「子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された」(マルコ10:16)ことも、馴染みのある風景でしょう。なんともうれしい気持ちになります。
 
こうして、より上位の者が、下位の者に対して祝福をする、ということを、聖書を読むようになった者は、どうしてもすぐさまイメージしてしまう傾向にあります。「祝福」という言葉を聞けば、このように「神が祝福する」という様子を思い浮かべてしまうのは、私も同じです。
 
◆神を祝福する
 
ところが、先の結婚式の例にもあるように、一般社会では、「祝福」という語を必ずしもそのような感覚では使っていないような気がします。聖書とは関係のない場面で「祝福」という言葉を聞くと、もっと和やかな関係の中での「お祝い」のようなものとしてしか感じないのではないでしょうか。
 
「クリスマス」は、イエス・キリストがこの世に生まれてきたことをお祝いします。ここにも「祝福」の言葉が使われてよいような気がします。そこへ突然ですが、そのキリストに救われる私たちのことについて、エフェソの信徒への手紙の1章は、こんなふうに書かれています。
 
3:私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福し、 4:天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました。私たちが愛の内に御前で聖なる、傷のない者となるためです。
 
「祝福」という語があります。明らかに、「神が私たちを祝福する」という意味で書かれています。これもまた、聖書に馴染む人だけが深く肯く、「祝福」の上から下へという方向性をもつ表現です。
 
新約聖書はギリシア語ですから、この「祝福する」という語を探ってみると、「エウロゲオー」という動詞が使われています。「ロゴス」という語をお聞きになった方も多いでしょう。様々な意味を含みもちますが、ベースは「言葉」を表すとしてよいかと思います。学問を表す英語でも、何々ロジーというのが沢山ありますが、この「ロジー」はギリシア語のこの「ロゴス」を受け継いでいるのです。このため、「エウロゲオー」は、語の構造から言えば「良い言葉」という語感を有した語だと言えます。「祝福」とは「良い言葉」という成り立ちがある、ということです。
 
ところが、先に引用した箇所で、もうひとつ、この「エウロゲオー」が使われているところがあるのです。いえ、こう言うと、きっちり学問を修めた学者先生が、「それは違う」と指摘なさると思うので、もう少し詳しく言います。
 
「霊の祝福をもって私たちを祝福し」の最初の「祝福」は名詞です。後のほうは動詞です。この動詞が「エウロゲオー」ですが、名詞のほうも、この語を名詞扱いにした殆ど同じ響きの語だ、ということになります。このように、動詞ではないけれども、実は「形容詞」という形で、「エウロゲオー」と横並びする語が、ほかにある、ということです。
 
実はその語は、この引用箇所の最初の語です。日本語では後から来ますが、原文では文頭です。「ほめたたえられますように」、これです。動詞の受動態のようにも見えますが、これは形容詞です。ですから、これを主語を補う形で、「人がほめたたえるのだ」と勝手にするのは気が引けます。それでも、それを「祝福」という言葉に戻して捉え直そうとしたら、「神が祝福されますように」ですから、祝福する者が神であるというふうには考えにくくなります。やはり、私たちが神を祝福するという図式で捉えなければ、この情況が想像できないように思われます。
 
それは、私たちが本来自然に感じていた「祝福」の感覚にも沿うかもしれないように感じます。もちろん神に祝福して戴きたい。けれどもまた、私たちも神を祝福したい。その日本語に何か抵抗があるなら、このエフェソ書が訳していたように「ほめたたえる」でもよいですから。
 
◆シメオンとアンナ
 
クリスマスの記事としては、イエスが生まれた後の話になりますが、霊的に優れた信仰者であったシメオンと、女預言者アンナが登場する場面があります。「清めの期間」が終わってからなので、恐らく生まれて40日経ってからのことだと見なす研究があります。日本の神社では「お宮参り」というものがありますが、これが生後1か月を迎えた辺りを基準にしていますから、ほぼこれに匹敵するような習慣だとも考えられます。1か月を生きた赤ちゃんは、ひとまずほっとできるということなのかもしれません。
 
イエスが生まれたのがベツレヘムだとルカは記録し、いまこの神殿のあるエルサレムにイエスを連れてきています。10kmほどの距離ですが、この40日間、どこにいたのでしょうか。ガリラヤまで一旦戻っていると、130kmほどを往復しなければなりません。心配しなくてもよいことなのでしょうが、少し気になります。
 
神殿に詣でたイエスとその両親の前に、シメオンが現れます。この赤ちゃんを抱かせてもらい、神をほめたたえます。もちろんこれもまた「祝福する」であり、しっかり動詞のままです。その後、両親に対しても「祝福し」たことが書かれていますから、祝福の連続となります。
 
尤も、母マリアに対しては、「剣があなたの魂さえも刺し貫く」(35)と不吉なことをも言いましたが、十字架のことを暗示しているということで、意味のある言葉となっています。
 
登場した二人は、高齢であるとよく見なされています。女預言者アンナのほうは、84歳だとはっきり記されています。当時としては驚くべき高齢です。この数字は、12×7の積です。12も7も、イスラエル文化にとっては、神にまつわる聖なる数だと考えられていますから、その効果を狙ったものなのかもしれません。
 
よく、シメオンもまた高齢者だろうと言われます。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」(29)という言葉の故です。この歳まで生かされてきたのは、この救い主と出会うためだったのだ、もう思い残すことはない、というその気持ちを汲んでの解釈です。私は、何もそう限る必要はないだろう、と考えます。老齢でなくても、そのような感慨を懐いたとしても、よいのではないでしょうか。ひとは、人生最高の出来事に遭遇したと思ったとき、同じような声を漏らすことはありうると思うからです。
 
いずれにしても、このシメオンは、幼子を救い主と霊により知ることができたため、大いなる感動の中に置かれました。このとき、神をほめたたえた、つまり神を祝福したのでした。救い主の両親をも、祝福しました。
 
イエスが降誕したときの物語といえば、東方の博士たちと、羊飼いたちの来訪です。特に博士たちは、遙か彼方から訪ね、贈り物を献げた上、この幼子を拝礼しました。羊飼いたちは、駆けつけて人に話したというほかに行動が残されていませんが、主が特別に知らせてくれた天使によるメッセージを確かめようと夢中でした。
 
シメオンは、神を見上げています。神を称えています。それは、神を「祝福する」という語で表現されました。エルサレム神殿という場だったからかもしれません。神殿において、神を祝福しました。
 
◆小さくされた者
 
小さな弱い赤児を抱いて、シメオンは神を祝福します。小さな、小さなイエスです。運命の星の下に生まれたことが、霊に感じられるのです。シメオンは、そういう霊において目が覚めた人だったということです。誰がどう見ても、ただの赤ん坊でしかないその子が、全人類を救う者となるのだ、ということを霊に感じてしまったわけです。
 
テレビドラマで、赤ちゃんが生まれた、というシーンが描かれることがあります。よく頑張ったね、と母親と赤ちゃんに祝福が集まります。産んだばかりの母親が、にこやかな顔をして、洗われた赤ちゃんが顔の横に寝かされている、という、お決まりの画です。赤ちゃんタレントという存在もあるわけですが、しかし画面を見て、いつもちょっと腕組みしてしまいます。それ、産まれたばかりではなくて、二、三ヶ月経っていない? そして、産んだ直後の母親があんなに落ち着いた笑顔で見つめるなどという余裕って、あるのかしら? もちろんあってもよいのですが。
 
しかしシメオンが抱いたイエスは、二ヶ月目ですから、まだ首が据わっていないにしても、いくらかしっかりした体になってきています。であるにしても、そのイエスは余りにも小さすぎます。シメオンには、主の救いがここに現れたということが分かっていますし、その母の魂が刺し貫かれるという運命も預言することができました。でもシメオン本人がどこまでその意味を分かっていたか、それは不明だと思われます。預言者は、凡ゆることを理解して、言葉を紡いでいるのではないだろう、と私は思います。それがルカの見解であるなどという点は、今は触れないでおきますけれども。
 
それでも、人となった神が、いまとても小さな姿でここにある。神の最大限のへりくだりとでも言いましょうか、神が人となったのみならず、最も小さな人となって、ここにいるということを感じたシメオンです。感無量だったことでしょう。
 
神は、その計画に沿ってではありましょうが、ここまで小さくなりました。本当はそんな小さな程度の価値しかないわけではないにも拘わらず、小さくなったのです。
 
私たちの世界にも、小さくなった人々がいます。いえ、私たちは近年、「小さくされた」とそれを呼ぶようになりました。
 
今日暖かく安心して眠る場所のない人。食べるものに事欠いている人。大人も、子どもも、様々います。私の知っているところで、あるいはまた、知らないところで。クリスマスのパーティで明るく歌い、踊る私たちの見えないところに、生きることだけでも精一杯の人がいて、生きられないかもしれない人がいる。見えない振りをしても、その人は確かにいるのです。
 
イギリスとイギリスに関係する幾らかの国々には、「ボクシング・デー」と呼ばれる日があり、特別な習慣があるそうです。英語の綴りは同じであっても、スポーツのボクシングのことではありません。「ボックス」つまり「箱」に関係し、動詞としては「箱に詰める」という意味で使われている言葉に基づきます。
 
クリスマスも仕事に就かねばならない使用人を、翌日に休日とし、贈り物も渡すというような習慣もあるそうですが、元は、クリスマスを寂しく迎える貧しい人たちのために、教会が寄付を募り、箱に入れた贈り物を届けるというところから始まったということです。
 
正に「小さくされた人々」への眼差しが生かされています。私たちは、その眼差しすら忘れていないでしょうか。あるいは、知らぬふりをしていないでしょうか。それでいて、自分たちだけが、「祝会」などと名を変えたクリスマスパーティを教会が楽しんでいるのだとしたら、そんなクリスマスは要らない、と言いたい気もします。
 
◆膨れてはいけない
 
イエスはそうした「小さくされた人々」の代表のように見ることもできる、と考えました。ではその反対は何でしょう。「大きくなった人々」と言うべきでしょう。「小さい」人々は、様々な事情でそのようにさせられたのに対して、「大きい」人々は、自分でそうなったという理解をします。
 
つまりそれは「膨れる」ということです。この「膨れる」という感覚をよく伝えているのが、聖書の、特に手紙でよく登場する、「高慢」というものです。高慢というのは、日本文化だと、鼻を高くするようなふうにもイメージできますが、たぶんその程度の喩えで十分と言えるものではないでしょう。もう体全体が膨れ上がり、自分を大きくするわけです。ツイートの中にも、そういうのは幾らでも見られます。特に、人々から特別に注目されるような立場にない者は、どうせ自分が誹謗中傷を書いても、何の影響もないとでも思うのか、無根拠に他人をぼろかすに言い、自分のことについては威張り散らしているようなものを見ることがあります。自称「クリスチャン」でも、そんなことをしている者がいるので、聖書を深く知るということは貴重なことなのだと強く思わされます。
 
人間は、よほど注意しておかないと、すぐに膨れ上がる傾向があります。自分では、自分が膨れていることに、気づかないのです。また、何気ない一言のうちに、自分を誇る意図がたっぷりしみこんでいる、ということもあります。時々私も気づかされます。本当は「時々」などではなく、すべての言葉がそうであるのかもしれません。繰り返しますが、自分ではそれが分かりづらいものなのです。
 
けれども、聖書に向き合うとき、私は自分の小ささを思い知らされます。そもそも最初に聖書の神に出会ったとき、膨れ上がっていた自分が「罪」に陥っていることを、ぶん殴られるような感覚で教えられたのです。ただひれ伏して、自分を低くするよりほかなかったときに、呼ばれて見上げたら、そこに十字架のキリストがいた、ということで、救われたのです。
 
私は、霊において、というのが伝わりにくければ、魂において、小さくされました。私は小さい者に過ぎません。存在を赦されているだけでありがたいこと限りなし、とでも言うような、小さな者です。
 
でも、その小ささを知ったからこそ、神と出会うことができました。それは、神もまた、小さな者として、この世で生まれる姿を見せたからです。それは、神が人間の歴史の中に飛び入ってくる瞬間でした。神は人間から超越したところにいるお方のはずですが、しびれを切らしてだか何だか知りませんが、人間の世界に現れました。人間の歴史の中に、神が介入してきたのです。そのとき、「さあ神だぞ」と大きな力を見せつけるようにして現れたのではありませんでした。
 
小さく産まれた赤ん坊がそこにいました。その後も、小さくへりくだる姿を、しばらくの間見せるばかりでした。時に、膨れ上がった権威や権力の持ち主に対してのみ、真っ向から闘うように力強い言葉をぶつけたのでしたけれども。
 
◆私たちの信仰
 
待降節。主の誕生を待つという形をとって、私たちはやがてキリストの現れを迎えます。かつての人々は、それがいつなのか全く見当もつかない中で、救い主の現れを待っていました。私たちはいま、キリストがすでに来てくださったということを前提していますから、カレンダーの中で、カウントダウンすらしながら、クリスマスの日が来ることを当たり前のように捉えながら、この時季を過ごします。
 
私たちは、すでに人となった主を知っています。知っているというのは、知識のことではなくて、主に全身全霊で出会うことでした。その主がやがて殺される、その十字架の出来事を我が事として受け止めることでした。そして、主はそれですべてを終えたのではなくて、復活という道を拓いてくださり、私たちにもまだ待つべきものがあることを遺してくださっています。それを私たちは、「希望」と呼んでいます。
 
そのとき、私たちは――いえ、私は、依然として小さな者です。かつて神の前で慄き震え、自分の罪を思い知らされたときのことを忘れることなく、霊において小さくされた者です。それなのに、時に「クリスチャン」という美しい言葉のために、威張るような妙な思いに支配されることがあるのです。
 
それは高慢にもつながりますが、他方、よくない情況に自分を追い詰めます。「自分は弱い」ということを認めると、信仰がないかのように思われてしまう、そう錯覚してしまうのです。
 
それは、信仰という次元だけではありません。近年、子どもたちの精神状態に懸念が広がっています。いじめられても、親に言わない。どうしてか。親に心配をかけるから。誰かに迷惑をかけることになるのがイヤだから。却って良くない別のことがあることを想定して、誰にも言わない。また、誰かに相談することで自分が弱いと見られるのを嫌がる場合もあるそうです。親しい人にむしろ言えないから、SNSで知るだけの人に相談する、そこから自殺を実現するような道がつくられていく、ということもあるはずです。身内ならば文句なしに自殺は止めるでしょうが、所詮他人だと、死にたい気持ちが分かる、などと声をかけられます。それが逆に、自分の気持ちを分かってくれる人だ、と信用するようにもなり得るわけです。
 
弱みを、見せてよいのです。弱さを、吐露してよいのです。あなたも、小さいのです。弱さを、親しい人間に言うことを憚るのならば、イエス・キリストに弱さを吐けばよいのです。十字架のキリストに向けて弱さや辛さや苦しさを告げるならば、たぶんあなた以上に弱くなり辛さを味わい、苦しみと痛みにまみれたこの方は、あなたの声を聞いてくださること、間違いありません。
 
それだけでも、信じてみませんか。私だって、そのようにして、立ち上がって新しい命に生かされたのですから。同じような体験をした人が、沢山たくさんいるのですから。
 
小さく生まれたイエスを祝福する、それがクリスマスであるとしたら、この時季に限らず、いつでもイエスを祝福しましょう。自分の中に辛さを閉じ込めないで、そして自分でその苦しみを全部背負おうとしないで、そのイエスに、祝福の言葉と共に、差し出すのです。打ち明けるのです。今度は神が、あなたを豊かに祝福してくださるに違いありません。それが、聖書からあなたへの、確かな贈り物なのです。



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