悔い改めということ

2022年12月5日

洗礼者ヨハネが呼ばわる。そしてまた、イエスも宣教の初めに叫ぶ。「悔い改めよ」。それは「反省せよ」とは全く異質のものである。反省したら、また新たに同じ方向にやり直すしかない。だが悔い改めたら、全く反対に向かって進むことになる。もう少し正確に言えば、進むこともしない。逆方向を向く、それだけでいい。
 
かつて主を信じますと言った者ですら、実は虚像としての主を見て思い込んでいることがある。さらに言えば、自分の願望や理想を投影した像を、神だと拝んでいることすらある。それは、自分を神としていることにほかならない。口でイエスを主と言い「さえ」すれば救われる、というわけではないのである。
 
クリスマスという時季に、私たちはどちらを向こうか。人となり、小さくなったイエスより、さらに小さいのが私ではあるまいか。赤児のイエスの前に跪くしかないとすれば、私はどれほど小さくならねばならないのだろう。
 
だのに、人間はいつも、自分を膨らませる。
 
洗礼者ヨハネは、天使ガブリエルからは、ナジル人であるかのように呼ばれていた。また、荒野に登場したときには、恰もエリヤのような姿であった。大衆から人気があった、世直しを叫ぶ変人であったであろう。ヨハネは、悔い改めの必要を教えた。そのひとつのしるしとしてだろうか、人々に洗礼を授けていた。
 
イエスも、そこに現れた。洗礼を受ける人々の列に入り、ヨハネから洗礼を受けた。罪もないのに、つまり悔い改める必要などないのに、どうして、とヨハネが問うシーンをマタイは描いていた。確かに、不思議である。イエスはそのとき、それは「正しいこと」だと言い、ヨハネのブレーキを解除した。
 
そう。イエスは罪人の中にカウントされたのだ。イエス自ら、罪人の中に入ったのであり、さらに言えば、罪人の先頭にイエスは立ったのだ。説教者はそう断じた。そのとき、私には思い起こす言葉があった。
 
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。(テモテ一1:15)
 
私はその罪人の頭である。パウロ本人かパウロの弟子か分からないが、聖書の中でも重要な意識のひとつがここにあったことについては、キリスト者ならば否定はしないだろう。これをパウロと呼んでおくが、パウロほどの人物であっても、自分は罪人の筆頭であると告白していた。確かにパウロも罪人であることは間違いない。
 
だが、イエスは洗礼を受けるその列の中で、罪人たちの隅っこにいたというのならば、偽善かもしれない。一応罪人の仲間の中に、ちょこっと入っておくね、という程度でそこにいたのだったら、イエスの他の言動と食い違ってくることになる。イエスは堂々と罪人の中に数えられたのであり、やはりそれは、説教者の言うように、罪人の先頭にいたのだ。つまり、罪人の頭となったのだ。
 
イエス自身、罰されて仕方のないような、罪を犯したのではない形で、罪人の頭となった。これは決して矛盾しない。そもそも神が人となったという時点で、人間的な論理からすれば不条理が起こっているのだ。ここでイエスが罪人の頭になったということが、訳の分からないことであるはずがない。
 
むしろ、そのことを見つめることができた者だからこそ、キリスト者という身分にして戴けたことになるのである。私が何をしたか。修行もしない。償いもしない。断食も労苦も何もしない。だが、このイエスがいたからこそ、私は救われた者の側に移されたのである。イエスを信じる者の側に呼ばれたのである。
 
それは、イエスの方を向いたということによる。ちょうど、鍵穴の中に差し込まれた鍵が、唯一の噛み合い方をして適切な方向に回された故に、ロックが解除され扉が開くように、救いの方を向くという唯一の方向に心身が合ったからこそ、イエスという道に載せられたのである。おそらく、十字架という鍵穴で、復活という扉が開いた、ということなのだろうと私は表現したい。
 
その鍵穴は、神の御心に適う悔い改めによって、見出されるものである。扉の向こうには、ただ光がある。
 
但し、これはひとつのイメージである。本当は、私が鍵をガチャガチャ回していくというよりも、神が私の頑なな扉を開けようとして、私の閉ざされた部屋が開放されたようなものなのだろう。神はひとの心を無理矢理こじ開けはしない。ただ、ノックしている。ノックの音は、静かに、だが時折確かに響いてきて、止むことがない。それに対して開くか閉ざしたままであるのかは、そのひとの側の応答となるであろう。
 
あなたの心はその音を聞いているか。聞いてなお、閉じたままか。それとも、少し心が揺らいでいるか。私もかつて、様々な不安がその音と共に胸の中をざわめいた。そう簡単には扉を開けない気持ちはよく分かる。でも、その音は一度聞こえ始めたら、消えることはないのである。



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