【メッセージ】イエスの時

2022年12月4日

(ヨハネ17:1-5, ホセア10:12)

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。(ヨハネ17:3)
 
◆小さな恋の思い出
 
初恋は、小学校低学年の時でした。だから、いま触れる出来事は、厳密には初恋とは呼べません。けれども、五年生の社会科見学に向かうそのバスの中で、私ははっきりと、ある女の子を意識し始めていました。何度もその子の座席の方を振り向いては、また前を普通に向き、そしてまた振り向くのでした。じっと座っているだけのその長い時間、その顔を見ないではいられなかったのです。
 
それまで、その子のことを特別に意識したことは、なかったかと思います。とにかくその日から、その子だけが輝いて見えたし、ずっと見ていたいと思うようになったのでした。
 
それからは、授業中も同じでした。六年生になるときはクラス替えがなく、同じクラスのままでした。いろいろ作戦を練って、土曜日の午後に近づくチャンスを得ました。彼女の家の前を何度も自転車で走らせては、ついに家の前の空き地で遊んでいた彼女に、偶然を装って話しかけて……いえ、その後のことは、ここではお話しする必要はないでしょう。
 
結局、彼女とはそれから二十歳になるころまで、何らかの接点がありました。私がその間にいろいろほかの女の子を好きになっては、また彼女と何かしら出会うというようなことを繰り返していたのですが、問題は、彼女は私のことを、ずっと異性としては見ていなかったことでした。
 
それでも、私にとり彼女は、私の心の中でだけですが、特別な存在であり続けました。その存在は、いつしか「心のふるさと」と呼べるほどになっていくことになりました。最初に感じたあの輝きは、やっぱり変わりがなかったのだと思います。恋は、ある日突然、相手のことが輝いて見えるようになる経験だと教えられた、と気づくのは、もう少し後になってからでしたけれども。
 
◆変貌山の出来事
 
そんな恋物語と同じにしてはいけませんが、イエスの姿が急に輝いたという記事が、新約聖書にはあります。マルコによる福音書9章から辿ると、イエスがある日、三人の弟子だけを連れて、高い山に登ります。すると、三人の目の前でイエスの姿が変わりました。真っ白に輝く衣に驚いたばかりでなく、エリヤやモーセが現れてイエスと話を始めた、と記録されています。いわゆる「変貌山での出来事」という箇所です。
 
弟子の筆頭であるペトロが、何か言わねばとでも思ったか、とんちんかんなことをイエスに言いましたが、雲が現れて辺りを覆い、その雲の中から声がします。弟子たちが見回した先には誰も見えず、ただイエスだけが一緒にいることが分かりました。イエスは、今見たことを誰にも話すな、と命じます。死者の中から復活するまでは。
 
ちゃんとイエスの復活にも触れています。さりげないようですが、その重要さは確かであり、弟子たちは早速それについて話し合い始めます。マルコによる福音書は、イエスの誕生の様子も記さないし、復活の事件についても描写しません。この直前に初めて復活のことがイエスの口から漏れ、ようやく話題に上るようになっただけです。 
イエスの姿の変貌と、復活の話題の始まり。それから、ユダヤの文書では、しばしば重要事項が中央に位置し、その前後が何かしら対応するような形で並べられるという文学形式があることを思うと、マルコによる福音書の中でも、ここはほぼ中心部に位置するために、福音書の物語の中核にある山場ではないか、と私は理解しています。イエスがそれまでとは違った姿を呈して現れたのは、ただの記事ではないと思うのです。しかもいま申しましたように、復活というところにまで言い及んでいるわけで。
 
◆十字架へ至る時
 
本日お開きしました新約聖書の箇所は、ヨハネによる福音書です。「告別の説教」と称され、イエスが逮捕されて弟子たちから引き離される直前の箇所です。ヨハネによる福音書では、ここで長い間をとっており、ゆったりと弟子たちに遺言めいたものを語り続けるイエスを描きます。それは、前回にも申しましたように、弟子たちに語る恰好をとりながら、読者である私たちに向けて語るものでもあります。私たちが、自分に向けられたメッセージであるとして、心して聴かなければならない言葉であるのです。
 
この場面の後、イエスは逮捕されます。弟子たちはイエスを捨てて散り散りに逃げて行きます。つまり、イエスと弟子たちとの共同体が、後戻りできない形でばらばらにされるのです。その直前に、イエスは余すところなく、伝えるべきことは伝えておこうと、ありったけの予告を語り、戒めを告げます。正に福音と呼べるような知らせも、そこにはたくさんあることでしょう。これが、十字架の直前の、イエスが語る教えの最後の機会となりました。
 
イエスは顔を天に上げます。父なる神に向けて祈るように言います。
 
1:イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください。
 
天の神と向き合うのです。それは、父との交わりの場となります。私たちの祈りが、神との交わりの中にあるということを思うとき、この祈りの始まりは、注目すべきものを覚えます。私たちも、愛する人と話をするとき、最初の言葉を何とするか、きっと思案に思案を重ね、大切にすることでしょうから。
 
このときイエスは、まず言いました。「時が来ました。」
 
◆時の様相
 
「時」と訳す語は、聖書でしばしば特別に説明されます。新約聖書はギリシア語からできています。日本語で「時」となっていても原語には何種類かあり、それぞれ意味合いが異なります。それを説明するにあたり、よく取り上げられるのは「クロノス」と「カイロス」です。それぞれ神話に基づく、ギリシアの神を由来とする言葉ですが、まず「クロノス」は、普通に流れる時間を表します。これは、時刻と時間とを区別して捉えるときの「時間」を表す、と大まかに考えてよいでしょう。対して「カイロス」は、「時刻」です。しかも何かしら「チャンス」とでも呼ぶべき瞬間を表すことができ、他とは違う特別な時を示すことになります。
 
ですから、イエスの十字架や復活といった、歴史の中での特別な時、特異点とでも言いたい特別な出来事については、「カイロス」を用いることになります。穏やかに淡々と流れていく時間とは明らかに違う、エポックとでも呼べるような時です。神が、人間の世界の歴史に介入する特殊な出来事は、この「カイロス」で表すほうが適していると言えるでしょう。
 
ところが、「父よ、時が来ました」(1)とイエスが口にした場合の、その「時」は、これらのどちらでもありません。「ホーラー」という語が使われています。これは「季節」を意味することのできる言葉だとされています。ですから日本語では「時季」とでも言えば、少し近い感覚で捉えることができるのではないかという気がします。
 
私は最初、この箇所の「時」は「カイロス」かと思っていました。でも調べると「ホーラー」でした。どうして「時季」なのだろう。これは、いまから決定的な事件を迎えるのですから、「カイロス」ではないのだろうか。確かに、十字架と復活は特別な瞬間です。それが間近であり、それを睨みつつある場面です。でも、いまイエスが過ごしている時は、その決定的瞬間に差し向かっている、一連の出来事の中です。着々とその瞬間へ向けて動いていますし、そこへ至るのは必然的だという流れとなっていますが、まだその特異な出来事そのものではありません。
 
まだ時は、いくらか膨らんでいます。幅があります。十字架へ向かう一続きの出来事の流れに入っているとは言えますが、まだ直接それは見えていません。そこへ至る出来事の並びが、いま始まったところです。だから、まだそこにさしかかっただけでは、「時季」でもよかったのだと私は理解しました。
 
過越祭の前に、イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた。(13:1)
 
「ご自分の時」、ここにもまた「ホーラー」が使われていました。他にも、ヨハネによる福音書では、様々な箇所(2:4,7:30,8:20,12:23,12:27,13:1,16:32)で「ホーラー」が用いられており、それを見るとどうやら、私の頭に浮かんだ単純な理解では賄えないようです。やはりこういう仕事は、学者がなすべきなのでしょう。
 
ヨハネによる福音書での感覚というものが、そこには関係しているようです。すると、ふと思い出すのが、ヨハネ特有の「しるし」という語です。「セメイオン」という言葉ですが、それはまた「奇蹟」や「証拠」の意味を含んでいます。イエスが特別な役割を果たす存在であることの証拠となる特別な出来事を広く含みうるような形で、「しるし」なる語が用いられています。ヨハネが「ホーラー」という言葉で「時」を表すとき、この「しるし」を頭に浮かべているようにも思えるのですが、これはまだ誰かを説得できるほどに考えていることではありません。皆さまもどこかで思い出されたら、ヨハネによる福音書をお読みになるときに、この「しるし」という語を気にしながら、イエスの「時」を読み解いてみては如何でしょう。
 
◆永遠の命とは
 
1:イエスはこれらのことを話してから、天を見上げて言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子に栄光を現してください。
 
時が来た。それではそこから何が始まるのか。その結果、子なるイエス自身が、父なる神の栄光を現すことがイエスの使命となります。そのために、イエスに栄光を現してください、と祈ります。人はなかなかこうした祈り方はできません。神の子ならではの対話がここにあるように感じられます。
 
栄光は「ドクサ」という、哲学の世界ではあまりよい響きではない語が用いられています。元々「考える」という意味の語から派生した語ですが、哲学では、プラトンが用いた意味で、人間の思い込みの考えのほうに引っ張られて捉えられがちです。それが、考えの「重み」の意味のほうに傾いて、やがて「輝き」を伴って捉えられるようになっていきます。
 
変貌山のイエスの輝きは、やはり神の「栄光」だったのだ、というのが、ヨハネ的な捉え方であると言えるのかもしれません。
 
2:あなたは、すべての人を支配する権能を子にお与えになったからです。こうして、子が、あなたから賜ったすべての者に、永遠の命を与えることができるのです。
 
「時」を迎えたら、どうなるのかというと、イエスが信じる者に「永遠の命」を与えることができるのだそうです。「聖書の中の聖書」と言われる、3:16の「永遠の命」に戻っていくような気がします。そして、ここに画期的な表記がなされます。
 
3:永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
 
問題の「永遠の命」の定義がなされているのです。これは驚きます。日本でも「竹取物語」のように、不死の薬にまつわる話がありますが、イスラエル文化でも、「永遠の命」というものが登場するのは、それほど古いことではありません。旧約聖書続編の中で芽生えたように見受けられ、比較的新しい信仰であり、イエスの時代でも、死者の復活はないとするサドカイ派からすれば、認められなかった概念であったわけです。
 
私たちも、どうイメージしてよいか分かりませんし、私たちの思うものとは、また違うものを、当時の人々が考えていたようにも思えます。時代も場所も違えば、言葉の示す意味の範囲や概念が異なることは、あたりまえです。別の文化の言葉を、機械的に訳したところで、その意味が把握できた、などと考えるのは勘違いであり、傲慢です。ですから、「永遠の命」とはこうだ、とさも分かったかのように説明することは差し控えます。それよりも、ここで「永遠の命」の定義がなされているように見える、という出来事については、大切に見つめてみたいと思います。
 
端的に言えば、「永遠の命」とは「知ること」である、となっています。
 
聖書で「知る」ということは、ただの知識を言うものではありません。深く体験することであり、創世記では明らかに、性的な交わりを意味する使い方がなされています。少なくとも、全身全霊を以て、体験的に接することを以て、「知る」という言葉を使うのでなければ、ユダヤ的ではありません。ですから、「永遠の命」にも、神とイエスと人格的に交わることが、ここで言われているのだろうと考えられます。
 
これはしばしば「出会い」という言葉で説明されます。私たちが神と出会うのです。あるいはまた、神が私たちに出会ってくださるのです。私は神と出会い、神が私と出会う。この相互的な交わり、あるいは強いぶつかり合いがあってこそ、「永遠の命」について見えてくるものがあるというのです。確かに、私たちは誰かと「出会う」ことで、人生が変わることがあります。ある人との「出会い」が運命を変えます。誰しも、そのような相手がいるのではないでしょうか。もし、それが生身の人でなくても、歴史的な人物であってもよいし、ある書物の中の人物であってもよいだろうと思います。
 
◆変貌
 
3:永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
 
この言葉は、イエスが発したことになっています。でも、それは奇妙ではありませんか。自分で自分のことを「イエス・キリスト」と呼ぶでしょうか。これもまた、前回までに考えた、筆者としてのヨハネが読者に直接訴える内容が、イエスの言葉として記されているだけのことなのでしょう。それは変だ、などと、文学的形式の異なる私たち現代人がとやかく口を差し挟む必要はないでしょう。
 
4:私は、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
5:父よ、世が造られる前に、私が御もとで持っていた栄光で、今、御前に私を輝かせてください。
 
地上で父なる神の栄光を現したというのが、イエスの口から出ています。さらに、それくらいのものではない、絶大な栄光で、「今、御前に私を輝かせてください」と加えます。そうです、変貌山でイエスが輝いたように、今また輝かせて欲しいという願いを発しています。
 
それでは、十字架の上でイエスは輝いたでしょうか。いいえ。輝くどころか、それは目を背けたくなるほどに無惨な死でした。見せしめの殺害でした。十字架は、ただ吊されているだけではありません。自らの重みで内臓はずたずたに裂け、呼吸困難に陥り、また手足に実際に打たれた傷口は限りない痛みをもたらします。それでも即死とはなりませんから、苦しみは続きます。自分で自分を殺そうとする自由さえ奪われています。裸でぼろ雑巾のようにそこに貼り付けられた、もはや人間としての尊厳の欠片もないような姿にされたイエス、それが、輝くイエスだ、とでも言うのでしょうか。
 
「輝かせてください」と、イエスは、いまの自身から変わる姿を求めています。いえ、変わるべきものは人間のほうであるはずです。もしも、ここでイエスが、人のあるべき姿のモデルを演じているような形になるというのなら、私たち人間が、神に向けて、「輝かせてください」と祈ってよいことになります。いえ、祈りたい、祈らなければならないのです。
 
神との交わりに入るには、まずイエス・キリストと出会わなければなりません。イエス・キリストに出会うことにより、私は生かされます。神に出会った人間は、変化させられます。それまで死んだような存在であった者が、神の命を受けて、生ける水によって、生かされるのです。私は、変貌させられることができるのです。
 
◆クリスマスの時
 
イエスが変貌山で姿が輝いたという記事をご紹介しました。不思議なことです。でも、あれは本当にイエスが輝いていたということなのでしょうか。もちろん、イエスは輝き得るお方です。けれども、あのとき弟子たち自身が、何かの変化を受けたとしたらどうでしょう。
 
私のようなただの人間でさえ、そして子どもであってさえ、恋心が生まれれば、相手が輝いて見えたのです。他の誰とも違う輝きが、あの子にだけはあったのです。あると思ったのです。弟子たちの主観のほうに、何かしら変化があったからこそ、イエスが輝いて見えたとしても、おかしくはないと思うのです。弟子たちの目に、イエスが、それまでとは違ったものとして見えた。魂に感じられた。霊が働いた。
 
もちろん、弟子たちが何もかも理解したとか、信仰に燃えたとか、そういうことでなくてよいのです。恋心の始まりは、その時にはまだ自分では意識できません。ただ、相手が輝いて見えるのです。眩しく見えるのです。
 
イエス・キリストがこの世に来たことを覚えることを、キリスト教会は、古くからこの時季に繰り返してきました。救い主の誕生を待ち望む期間です。ユダヤの人々が、救い主を待ち望んだように、私たちもいま待ち望んでいます。イエスが世に来たのが「カイロス」の「時」であったとするなら、こうして待つ時季は「ホーラー」の「時」でよいかと思います。イエスが世に来る、つまり神が人間世界の歴史に強引に介入するその「時」は、決定的な「時」でしょうが、それをいまかいまかと待っています。
 
かつて人々は、救い主の到来がいつであるのか、知り得ませんでした。ただ信仰によって、待ちました。いま私たちは、三週間後だなどと呑気な計画を立てて待っています。これは、本当に「待っている」ことにはなりません。「待つ」のは不定期であるはずです。何時に待ち合わせ、というのであれば、ただ約束に従えばそれで終わりです。果たしていつ来るのか知れず、本当に来るのかどうかさえ、あのメロスの親友セリヌンティウスでさえ疑ったほどですから、これは、ひとつの信仰に関係します。信仰生活の中にある私たちにとっては、当然のことでしょう。
 
日々祈る。神に願う。それがいつ叶えられるか、それは分かっていない。いつであっても、神が一番相応しい時に、それをなしてください、と祈る。二千年前のユダヤの地で、政治的に経済的に、苦しい目に遭っている中で、ダビデ王の再来を願い、神に祈っていたとするなら、いつ叶うとも言えぬ祈りを神に向けていたことになります。まさにそれこそが、神を「待つ」祈りでした。
 
私たちは先週、待降節の始まりにあって、「永遠の命」を得るために神が来てくださったという結果に耳を傾け、神の愛を信じました。今回は、その「永遠の命」が、神とイエスを「知る」ことである、と確実な定義を味わいました。「知る」とは、出会うことであり、深い人格的な交わりをなし、信頼の堅固な関係を結ぶことでした。
 
それは、私の人生が変わることでした。かつてこの神を知らないとき、見知らぬ霊を拝み、敬虔な装いをしながらも、結局のところ自己愛に支配されているだけの生き方を私はしていたのです。しかし聖書の言葉によって、神の前に引きずり出されました。そしておまえの罪はこれだ、と突きつけられて、ハンマーで頭を殴られたかのようなショックを受け、打ちのめされました。しかし、神は私をただ殺したのではありませんでした。私を見なさい、との声に従って見上げた先に、十字架のイエスの姿があるのを知ったとき、世界を見る方向が180度変わりました。人生が変わりました。
 
もう、クリスマスという行事が、サンタクロースでもないし、パーティでもなくなりました。赤ちゃんというイメージだけが、目の前に与えられました。輝いている赤ちゃんです。眩しくて、切なくて、悲しいほどに輝いている、赤ちゃんです。私にはそう見える、赤ちゃんです。あなたにも、見えますか。
 
もしもあなたが、まだその輝きをイエスに感じていないのだとしたら、その時が来るようにと祈ります。それは「イエスの時」ではあっても、まだ「主を求める時」であってもよいかと思います。他方、もしも私の経験と同じように、あなたもそのように見えたのであったのなら、あなたは確かに変えられたのです。自分で気づいていない方がいるかもしれませんが、あなたの前で輝いているイエスは、あなたの心がそのように見ているのです。つまりあなたがすでに変えられているからです。あなたが変えられた「時」、それが、「イエスの時」であったのです。



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