イエスとパウロの奇蹟

2022年11月26日

神の子なら自分を救え。十字架から降りて来い。
 
怒号の群衆が、死に瀕した者に言葉の鞭を打つ。イエスが神なら、降りてくるくらいは簡単なことのはず。ひとつの理屈が通っている。だが、イエスは降りなかった。降りられなかった。神の子である故に、である。キリスト者ならば、神を弁護することとは無関係に、その意味を知っている。それが信仰というものである。
 
だから、それをここで言葉で説明しようとは思わない。何か言ってしまうと、私にとっての一つの真実ではありうるが、また別の人にとってはそれは違うということにもなるだろう。一人ひとりに、同じ十字架のイエスが、相応しい答えを与えてくれるはずである。
 
ただ、十字架が必要だった。それは神の自由と全能さを表していると共に、人間の目のフィルターからすると、神の不自由と不可能性であるかのように見える、そういうものであった。
 
ふと気づいたが、パウロも、なんだか能力を隠すようなことをしているような気がした。ルカが書いたと思われる使徒言行録には、パウロが、エフェソかもしれないし、他の場所でも行っていたかもしれない奇蹟が記録されている。身に着けていた手拭いや前掛けを病人に当てると、病気が癒やされ、悪霊が出て行くのだった(19:12)。つまり、イエスが人々の病を癒やし、悪霊を追い出していたのと同様のことをしていたようなのである。また、マルタ島で、現れた毒蛇に襲われたが、何の害もなかったという(28:5)。このためにパウロは神呼ばわりされたというので、迷惑だったことだろう。
 
パウロはどうやら奇蹟を起こす力があったらしい。三階の窓から落ちたエウティコという青年を生き返らせたように見える(20:10)。いや、これは死んだと皆が思った青年を、生きているぞと見出しただけのように見えるに過ぎない、という読み方もあるであろうが、ルカは「生き返った」(20:12)と記している。他にも少しある(13,14,28章など、すべて使徒言行録)。
 
こんな不思議な業を行ったことのあるパウロだが、パウロが書いた数々の手紙の中に、自分の奇蹟の力をアピールする気配が見られないように私は感じる。私なら、コリント教会のように、都会的だがやんちゃな教会に対して、奇蹟を示して一発で目の色を変えさせてやろうものだが、パウロは言うことを聞かない教会に、ずいぶんと手を焼いている。
 
どうして、使徒言行録で示したような奇蹟の力を、各地で建てた教会で見せなかったのか。また、手紙の中でそうしたことについて本人が触れないのか。
 
ルカの脚色だ、という解釈も、もちろん可能である。自分の体の悪いところも治せないパウロであったから、パウロに神通力のようなものがあったわけではない、と説明するならば、現代的で、現代人の納得を呼ぶかもしれない。
 
パウロは神ではないので、イエスのような仕方で私との関係においてひとつの答えを与えるものではないだろう。ならば、何らかの説明が欲しいと思う。信仰のことでもあるので、必ずしも説明してしまうのが最善だとは思わないが、このことを問題にして論じた本があるのだろうか。私も読んだかもしれないが、記憶にない。私の記憶力というのは、その程度のものだ。使徒言行録がフィクションだ、と断ずるほかに、もう少し意義のある捉え方をする信仰の道があってもよいような気がする。ご教示戴きたい所存である。



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