映画「すずめの戸締まり」

2022年11月24日

新海誠監督の作品を映画館で観るのは、「君の名は。」「天気の子」に続いて3度目である。私の感想だが、監督は、今回の「すずめの戸締まり」で、本当に伝えたかったことを描くことができたと思っているのではないだろうか。
 
もちろんストーリーそのものについてネタバレをしたいとは思わないので、もう少し漠然とした形で語ろうかと思う。但し、それでも映画を観るまではそうした声を一切聞きたくない、という方もいらっしゃるだろうと思う。そのときには、ここまでお読みになれば十分である。
 
メジャーな3つの作品に関係する限り、少しだけお話をしてみようかと思う。
 
若い男女の出会いあり、天災について特別な能力か知識をもつようになり、天災を封じるために誰かが犠牲になるという構図がある。スペクタクルを経て天災は治まり、別れた2人が再会するラストシーンとなる。こういうのがこれまでの2つの作品であった。これが今回どうなったかは、ご覧になった方にはお分かりだと思う。
 
すでに私が2か月前に、原作本について触れたときに指摘しておいたように、どの作品も、神道や日本神話を背景としており、今回は主人公の名前と物語の始まりの地からして、非常に分かりやすい設定がなされていた。宮崎は日本神話のふるさとであり、「岩戸」と「す(う)ずめ」は正に神話そのものの世界である。
 
そこから、芸予地震・阪神淡路大震災・関東大震災そして東日本大震災それぞれの場所で、一種の鎮魂を果たしながら物語は進む。そこにかつていた人々の心を思いやるということが、重要な営みとなることが、物語の初めにすでに提示されていた。
 
私たちは、当然のことのように、今日があり、明日があるだろうということを前提としているかもしれない。だが、突如襲いかかるのが天災というものであろう。それに対して人間は容易には抗えない。新海監督は、それを日本古来の神々のものとして考えており、古代信仰が遺していた世界観によってそれを描こうとする。亡くなった方々は、あと一年、あと一日だけでも生きたかったであろう、と想像する。
 
過去を忘れたり、捨てたりすることはできない。だが、過去だけしか存在しないのではない。子どもたちが未来を信じることができるように、そしていまなお地上での時間が許されている者たちも、ここからまた立ち上がって歩き始めることができるように、と願う。
 
映画が上映されると、すぐにその映画の価値がどうとか、何がまずいとか、外から批評ばかりして、マウントを取ろうとする人々が現れる。それは、聖書についても言えることなので、さして驚く必要はない。聖書はどうだと言ってのける者や、聖書の説明だけをすればよいと考える「説教」者がいるが、聖書から何を与えられ、自分がどう生きるかということに関心をもっていないことが、悲しいほどに現れている。物語の中に永久に入れない人である。映画は聖書ではないが、私たちがもっと日常を大切にし、希望をもつべきことを与えられたなら、うれしいことではないだろうか。もちろん、その他、何をどのように受け止めてあたたかな心になれるかを知る方がたくさん現れたら、何よりである。

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