【メッセージ】私たちの祈り

2022年11月20日

(ダニエル9:1-20, コロサイ1:13-14)

私たちはこの御子において、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。(コロサイ1:14)
 
◆ダニエルの祈り
 
ダニエル書についてご説明をしていると、それだけで終わってしまいそうな気がします。預言書としてキリスト教では大きな位置を示しますが、ユダヤ教サイドでは、預言書扱いではなく、この世の終わりの姿を描くものと見られているそうです。事実、かなりおどろおどろしい終末の描写も含まれており、新約聖書のヨハネの黙示録もそこから引用していると思しき表現が多々あります。
 
ダニエルと、共に三人の若者とが、捕囚された先のバビロニア帝国で登用されるところから、ダニエル書は始まります。イスラエルの信仰を保っていたことで、スキャンダルに巻き込まれますが、その都度神に救われるという物語も複数描かれますが、今日お開きした箇所は、すでに黙示の内容に入っています。つまり、ダニエルの見た幻が次々と記されている、ということになります。
 
エレミヤ書は、バビロン捕囚について預言した預言者でした。その書をダニエルが読んだときに、主に向かって祈った、という場面がここにあります。
 
3:私は神である主に顔を向け、断食し、粗布をまとい、灰をかぶって、祈りを献げ、嘆願した。
 
灰を被るのは、いわゆる悔い改めの行動と考えられます。断食と粗布についても、そうです。このときダニエルは、主に顔を向けています。これも大切なことです。イスラエルでの祈りは、天を仰ぐようにすることが知られています。手を組んでうつむくのではなく、手を広げて、空を見上げるのです。この姿勢ひとつに、「祈り」についての姿勢や捉え方がずいぶん違ってくるような気がしてなりません。
 
この朝は、「祈りを献げ、嘆願した」というところに、深く思いを寄せたいと願います。
 
少し話が逸れますが、2020年の日本テレビで夏の恒例「24時間テレビ」のために作られた、チャリTシャツを、珍しく私が買ったことを思い出します。コロナ禍に陥って初めての24時間テレビでした。鳩と狛犬は、疫病の災難に喘ぐ世界へのための祈りと希望を表していました。その図柄の周囲に文字が小さく並べられています。その文字は、世界のいろいろな言語で「祈る」という意味を表す言葉でした。
 
人間が、得体の知れない敵の前で、どうしてよいか分からなかった時に、求めたものは「祈り」だったのです。ただ、ダニエルの場合は、その「祈り」の対象がはっきりしていました。
 
◆嘆願
 
日本語で「祈り」と聞いたとき、それはどういうものを想像させるでしょうか。たぶん、「お願い」の要素が多いだろうと思います。「祈願」という言葉もあります。見えない存在に向かって、どうかこれこれをしてください、これこれでありますように、と願う気持ちを、「祈る」というように称することがあるのではないかと思われます。
 
もちろん、それはあってもよいのですが、聖書の世界にある「祈り」は、それだけではないようです。今日はもちろん、そこへも目を向けることになります。が、その「願い」について、いま少し振り返ることにしましょう。ダニエルもここで、「嘆願した」とはっきり述べています。なかなか日本語では「嘆願」という言葉は使わないように思うのですが、これはどんな意味なのでしょうか。
 
この言葉を使うのは、通常「嘆願書」が必要な場面ではないかと私は感じます。どうかこの処分を軽くしてください、というように。実情はこうだったのです、難しいとは思いますが、なんとか酌量して罰を軽くしてもらえないでしょうか。比較的個人的なレベルになるようにも思えます。公的になると「請願書」になるでしょうか。法的な話はよく分からないので、詳しい方はまた教えてください。
 
高校生のとき、英語の劣等生だった私は、英和辞典を引くとしばしば、このような言葉に悩まされました。全然別の単語であるのに、訳語が実に似通っているのです。「嘆願する」「懇願する」といった語が訳語として出てくる英単語の、実に多いこと。こんなにも英語を使う人々は、あちこちに嘆願したり懇願したりばかりするのだろうか、そんなに区別する必要が、どこにあるのだろうか、と不思議に思えて仕方がありませんでした。
 
どちらかというと、日本語の感覚では、「懇願」のほうが、感情的というか、ひたすら願うというふうに思えますし、「嘆願」のほうは、事情を説明して何らかの説得を求めるようにも思えますが、英語だとそうしたニュアンスが、さらに細かく区別されて、いろいろな語が用いられるのだろうと思います。
 
私の推測では、聖書におけるような、神に対する願いが日常的である文化においては、その願いの構造が多岐にわたるために、様々な表現が培われていったのではないかという気がします。元々多様な言語が集まって育った英語ですから、多くの文化におけるそうした信仰の態度が、それぞれの言語に由来するものを遺していったのかもしれません。これは素人の推測ですから、どうか本気になさらないように、ご自分でお調べくださることを、願います。あら、こうしてすぐに私も「願います」と言いますね。
 
◆誰が嘆願するのか
 
少なくとも聖書の世界では、ただのお願いで祈りが説明できるようには見えません。「苦しい時の神頼み」とやらは、基本的に戒められます。定義することは不可能ですが、祈りのひとときは、神との交わりのようなものだと見なされているように思われます。人間の側が一方的に神に申し上げる、というようなものではない、ということです。
 
以前、有名な芸能人が、よく冷蔵庫に話をする、という話をしていたのを聞きました。一人暮らしの中で、たとえば壁に向かって話しかける、ということもあろうかと思います。しかし壁は返事をくれません。壁は生きていないし、言葉を発しないからです。しかし、神は存在する、その前提があるからこそ、私たちのいう「祈り」があります。神から言葉を発してくださる。神の側から何かが私に向かってくるのであり、何かが注がれるという事実がある。だからこそ、神からの言葉、そして私の側からの言葉が行き来します。コミュニケーションがあるわけです。これが「祈り」というものの「場」であるように思うのです。
 
そのとき、私たちは神の前に出ます。神と向き合っていることになります。そうなると、私たちは当然自分を顧みることになります。自分は神の前に何であるか、思い知るのでなければ、そんなことできるわけがありません。
 
私たちの負い目をお赦しください/私たちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。(マタイ6:12)
 
私たちの祈りは、私たち自身がどうあるか、に厳しく支えられることでしょう。それで、ダニエルもまた、イスラエル民族のこれまでの罪を悉く神の前に明らかにします。お聞きになったように、背信の罪の故にこうした憂き目に遭っているのであり、主に聞き従わなかった故の顛末であることを告白するばかりの祈りが、ここにあります。
 
ダニエルは「私たちが」と繰り返しています。イスラエル全体がそうだからです。そう見たときに、私はふと、ダニエル自身のことを本人はどう考えていたのか、気になるようになりました。「私たちが」神に逆らった、と言いますが、ダニエル自身はそんな人ではなかったはずだからです。ダニエル書は、最初からそのように、命を懸けて主に従い通したダニエルとその友人たちの姿を描いていました。そのダニエルが、まるで自分が神への背信を続けてきたかのように「私たち」を連発していることを、不思議に思ったのです。
 
ダニエルが嘆願をしていたとばかりに思えるような祈りでしたが、その「私たち」とは、いったい本当は誰のことだったのでしょうか。
 
◆「私たち」その1
 
ここからしばらく、「私たち」という言葉の使い方について、考えてみます。それによって、この祈りの背景にある構図や心理、あるいは信仰といったことを共有できるかもしれない、と期待するからです。v  
普通の言葉の使い方としての「私たち」は、英語で「we」を学ぶときの説明の通りです。語り手を「私」とすると、その「私」を含み、ほかにも別の誰かを含む形でまとまった一団のことを指すと考えられます。そのメンバーは、「私」と何らかの共通項をもち、互いに「他人」だとは言えないような、一種の仲間意識をもつ人々のことでありましょう。
 
つまり、誰か他の人がいて、その人たちとこの私とが、皆何らかのことでつながっている、ということを表すことになります。「私」はこの人たちと、強い連帯関係の中にある、ということを表明する場合に、「私たち」という主語を使うわけです。
 
父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。(ヨハネ17:21)
 
これは、キリスト教青年会(YMCA)の設立の根拠となった聖書の言葉です。イエスという語り手が、父なる神と一体となって「私たち」と称していることになります。それは「一つ」であるということを前提としています。だから、弟子たちが、人類が、一つになってもらいたいという思いが描かれることになりました。
 
なお、論文などにある「私たち」の使い方もあります。意味はこの最初の意味と同じで、自分と人々とを強い連帯意識で結ぶものですが、これは書いた本人だけがそう思っているということもありうるわけで、必ずしも読者が同意見であるとは限りません。少し空しい「私たち」の意識であるかもしれません。
 
◆「私たち」その2
 
しかし、ダニエルの祈りの場合、「私たち」というものが指している中に、ダニエル自身が含まれていないように見えました。そんなことがあるのでしょうか。あるとすれば、この祈りの中で使われている「私たち」の人称には、普通の使い方とは違う使い方から潜んでいるのかもしれません。
 
それで私も、貧しい知恵を絞って考えました。すると、ひとつ思いつきました。自分と何らかのつながりはあるものの、そのグループに、語る自分が決して含まれない場合に使う「私たち」という言葉が、確かにあるように思うのです。
 
私も、自分はそこに含まれていないのに「私たち」という言葉を使う場合があります。つまり「あなたたち」という表現が適切であるのに、「私たち」と言うのです。教室で教師が、生徒たちに「私たちは今度の運動会で優勝を目指して汗を流そうではないか」と言うことはありうると思うのです。しかし、教師自身は競技に出ませんし、汗を流しはしません。部活の顧問教師が、「私たちは……」と言うときも、戦うのは選手であって、顧問ではありません。けれども、これを聞く側も、その「私たち」という語の使い方を、間違っているようには感じません。ここで「私たち」は、その文の述語と直接結びつくだけのものではなくて、感情的に連帯した仲間意識をただ表しているだけではないかと思うのです。
 
論理的には「あなたたち」ではあります。が、語る自分も、気持ちの上では一緒だよ、という気持ちで使う「私たち」という言葉には、意味があります。語る側がその文の主語になりえないことが分かってはいるけれども、聞く側は、語り手が自分たちと気持ちが同じなのだ、と受け止めてしまうのです。これは時に錯覚します。いえ、語る側が、錯覚させるために用いている、という見方も可能です。
 
政治家が時に言います。「私たちは値上げに苦しんでいます」と選挙演説で叫びます。いやいや、その金持ちの政治家は、少々の値上げに、別に苦しむほどではないのです。けれども、聞いている皆さんは苦しんでいますよね、と言わなければ正しくありません。しかし聞く側が、あの政治家は自分たちの苦しさを分かってくれている、と勝手に解釈することを期待して、「私たち」を使っているのだと思います。逆に、もしもここで「あなたたちだけは苦しんでいますが、政治家の私は少々の値上げでも生活はそう変わりません」とでも言えば、すべての票を失ってしまうでしょう。
 
今日はあまり深入りしませんが、教会で説教をする人の中にも、このタイプの人が実際いますので、気をつけてください。中には、自ら計算してそれをやっているという自覚なしに、平然とやっているような人もいますので、質が悪いことこの上ありません。
 
◆「私たち」その3
 
さて、これで「私たち」の使用例は尽きたかと思いましたが、私はさらに思案してみました。すると、上の二つとはまた違う「私たち」の使い方に気がつきました。
 
それは、自分と本来関係のない人々と、語る自分とを結びつけるために用いられている「私たち」です。これまでの使用法のように、強い連帯意識があるとか、仲間意識をもたせるとかいう背景がありません。自分の側で、勝手に誰かのことを仲間のように結びつけるのであり、しばしばその結びつけられた人々は、その「私たち」に含まれてしまったことを、知ることがありません。語る者が、勝手に誰か他人を、仲間のようにしてしまうのです。
 
論文のときに、読者を勝手に「私たち」に引き入れるという例を、先ほど挙げました。書いた本人が、勝手に読者を仲間のように見なして使う「私たち」でしたが、それは、時に空回りとなり、そこで期待されている結びつきは、いわば幻に過ぎません。しかし今回申し上げている結びつきは、決して幻ではありません。他の人々の反応を計算してのものではなく、語る側の強い思い入れがあって、その思い入れの結果、たぶん語る側自身が、そこから変化していくような道が始まるであろうような、そんな「私たち」の持ち出し方なのです。
 
非常に抽象的な言い方になりました。少しばかり具体例を掲げましょう。二つ目の例は、「あなたたち」という意味をもつ「私たち」でしたが、三つ目のこれは、「あの人たち」としか呼べないような人々と自分とを、ひとつにまとめて受け止めているような様子を表すのです。
 
2005年、尼崎市で、悲惨な列車事故がありました。JR西日本の運転士が、規定以上の猛スピードでカーブに入った列車が、線路を外れ、正面のマンションに激突したのです。百人以上の乗客が、殆ど跡形もないような車両の中で亡くなりました。マスコミは、街行く人にマイクを向けていました。
 
ある年配の男性がそのとき答えた内容を、私は忘れることができません。これは自分たちが、社会が起こしたのだ、というようなことを言ったのです。男性がその意味をマイクの前で説明したようには見えませんでしたが、私はそれを自分なりに受け止めていました。わずかな遅れでも利用者はJRにクレームをぶつける。これを受けて、会社は乗務員に厳しい態度で臨む。それで運転士が暴走させた。もしこのように考えるならば、利用者や市民が、この事故を起こしたと考えることもできるわけです。
 
社会問題が報道されるときも、私はしばしばそのような感覚をもちます。未成年が事件を起こす。本人が悪いとか、周囲の人間が悪いとか、親が悪いとかいうコメンテーターの声が放送されます。でもそうでしょうか。私がその子に、希望を届けるようなことは、本当にできなかったのでしょうか。絶望して自ら命を絶つ。世間は自己責任にするでしょう。あるいは、政治が悪い、とするでしょう。けれども、そこに福音を届けることはできなかったのでしょうか。私は胸が痛みます。それは、自分は何でもできると過信するとか、自分が思い上がった使命感をもっているとか、そういうことに見られるかもしれませんが、そしてそう見られても別に構いませんが、私はただ胸が痛むのです。自分とは関係がない、というふうには思えず、自分と関係がある、と思ってしまうのです。
 
ドイツの哲学者ショーペンハウアーが大切にした考え方の一つに、「共苦」と訳される語(Mitleid)があります。それは敢えて説明をすれば、「他者の苦悩を自己自身の苦悩として感じ取る現象」と言えるでしょうか。「同情」ともまた違うと思います。「誰かの靴を履いてみること(To put yourself in someone’s shoes)」という言葉を知っておられる方もいることでしょう。福岡で生まれ育った方ですが、ブレイディみかこさんが本で紹介したその「エンパシー」という考え方にも、それと通じるものがあるのではないかと思います。
 
◆イエス・キリストと「私たち」の祈り
 
私に「共苦」や「エンパシー」ができている、などとは申しません。それどころか、私は生来、ひとの痛みの分からない、冷たい人間でした。いま、何%かは、それを感じることができている場合があるとすれば、それは、イエス・キリストに出会ったためだと言うことができます。そう、このイエス・キリストこそが、ひとの痛みを自分の痛みとして引き受けた、最高のお方です。聖書から、それが分かります。
 
福音書に、時折「イエスは憐れんだ」というフレーズが見かけられます。この原語は、言葉の上から見ると「腸がちぎれるような」という意味がこめられた作られ方をしている語であることは、聖書を読む方々には有名です。差別されて貧しく辛い思いをしている人、大切な人を亡くした人、そんな人を目の前にして、イエスは、自分の腸がちぎれるような辛さを覚えた、というふうに読めるのです。きっとイエスもまた、顔を歪めて、その人の前で本当に痛みを覚えていたのだろうと私は想像します。
 
イエスは、本来無関係な他人の身に起こった出来事に遭遇して、その人たちの中に、自身を置いていたのではないでしょうか。それは「私たち」の三番目の受け取り方に近いものだと思います。人は皆罪があり、罪人だというのが聖書の見解です。その罪人と、神の御子イエスとは、本来強い絆もなければ、連帯意識も存在しません。しかしイエスは、恐らく「私たち」という意識で、その人たちのことを見ていたのではないかと思うのです。口先だけではなく、ほんとうに痛みを伴いながらつながっている、という意味で、イエスから見て「私たち」という思いで、人と一緒にいた。それこそが、聖書からの強いメッセージである、「神はあなたがたと共にいる」という言葉の、ひとつの切実な意味であった、と私は信じているのです。
 
だとすれば、「私たち」という、無色透明であるかのような、何気ない言葉ひとつからでも、「私たち」は、神と出会うことができるのです。どんな場面にでも、神の光は射してきます。「私たち」は、光の当たる道を知っています。ただ、信仰深いように見える人だからといって、その人のすべてが光であるのではありません。光そのものである方は、イエス・キリストで十分です。
 
このダニエルは、「私たち」と祈りながら、実はその「私たち」には含まれないほどに、信仰深い人だったと伝えられています。けれども、ダニエルはダニエルで、自分の中にある「罪」ときっと向き合っていたのだろう、と私は信じています。それがあったからこそ、信仰の言葉を発することができたはずなのです。今回ずっと、預言者による公的な祈りとして、「私たち」と祈ってきましたが、最後にダニエルは、つい口に零しています。
 
20:私はなお語り、祈り、私の罪と私の民イスラエルの罪とを告白し、また、私の神の聖なる山について、私の神である主の前に嘆願を献げていた。
 
気づかれましたか。「私の罪」と言っています。この祈りでダニエルは、「私の罪と私の民イスラエルの罪とを告白」していたのです。ダニエルは、民が重ねてきた罪に対して、外に立っていたのではありませんでした。当事者そのものでした。他人に、自己責任を負わせるような態度をとったのではなかったのです。
 
「私たち」も、ひとの痛みの外に立つ自分に気づいたら、ダニエルが教えてくれた「私たち」と「私」の祈りを、思い起こしましょう。それが、キリストの心に、いくらかでも重なるものだと信じて、「腸がちぎれる」ほどではなくても、「頬を叩いた」くらいの痛みを、覚えようではありませんか。そして、自分の罪を告白しましょう。神は赦してくださいます。十字架のキリストが、赦しを与えます。それからこの神の前に出て、自分の心の中にある願いを申し上げましょう。ダニエルの祈りに倣うのです。そうです、「私たち」の祈りを、そのように献げましょう。「私たち」の祈りを。



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