からし種のたとえ

2022年11月20日

イエスは、農業や漁業、牧畜業といった、命を支える仕事に携わる人によく響くであろう話を時折語っている。「種蒔きのたとえ」は有名である。良い地に落ちた種はよく実を結ぶということで、これには、福音書記者の目を通してなのかもしれないが、たとえが意味するものを丁寧にするというおまけがついている。
 
もうひとつ、「からし種のたとえ」も、印象的である。マルコ4章から引いてみる。
 
30:また、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31:それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
32:蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
 
私はこれを、YMCA進学教室で、テストの結果などを知らせる一種の通知表のようなもののタイトルにして、学期末に発行していた。大きく成長してほしいという願いをこめて、聖書箇所も載せていたが、どなたか、聖書まで辿ってみた方がいただろうか。
 
「種蒔きのたとえ」においては、イエス自身の解説として、種は神の言葉だ、と明確に示してあった。同時に、蒔かれた場所が、神の言葉をどう受け容れるかという、私たち人間を表しているということが窺えた。この背景があったものだから、「からし種のたとえ」でも、つい、私たちの中で神の言葉が大きく育つようになるとよいのだ、というふうにイメージしていたような気がする。
 
これは「神の国」のたとえである。それは明確である。「神の国」とは「神の支配」のことでもあり、神の言葉が実現する世界のようなものを思い浮かべるとよいものだと思う。それが果たして、私たち人間が思い描くような時間空間の中に存するものかどうか、それは恐らく怪しいだろうと思われる。もちろん、人が死ねば行くであろう「天国」というような捉え方をすることは、益々よろしくないだろう。
 
しかし、それは「たとえ」で示されるものである。ずばり定義ができるのであれば、ずばり定義すればよい。人間にはしょせん定義的に把握ができないものであるから、いつまでも「たとえ」に留まるのである。少なくともいまこうして地上で生きている限りは。
 
しかしこの種は、いつ蒔かれるのであろうか。すでに蒔かれている、としか考えられない。神の言葉、イエスの言葉が、こうして与えられている。神の言葉はすでにここにある。だが、「種蒔きのたとえ」はそれでいいとして、この「からし種」は、神の言葉を意味するだけではない。からし種そのものが、神の国を何らかの形で指し示しているのである。
 
少なくとも、このからし種は、「地に蒔く」ものとして描かれている。たとえに登場するものにすべて意味をもたせることは、アレゴリー解釈などと呼ばれるが、たとえはたとえなのであるから、すべてのすべてに意味をもたせようとすると、意味のないところに「こじつけ」を与えてしまう虞があり、聖書本来の意図を激しく歪めてしまうことになりかねない、とされる。だから用心しなければならないが、確かに「からし種」は蒔かれている。
 
つまり、「神の国を蒔く」ということがここで言われている。これは、神が蒔く、とは限らないのではないか。否、むしろこの言葉を聴いたキリスト者、この私が、蒔くように促されていると見たほうがいい。さらに、「からし種」すなわち「神の国」を、象徴的にかもしれないが、イエス・キリストに集約して受け止めてみるならば、「イエス・キリストを蒔く」ところにまでつなげてみよう。かのイエス・キリストは、地上で、小さな小さなからし種になってくださったからである。その出来事であるクリスマスを、私たちはこれから迎えるのである。
 
こうしてつながったからには、「さあ、イエス・キリストを蒔け」という迫りを感じないだろうか。感じなければならないのではないだろうか。
 
私たちも、この私も、神の国をいまここから始めることができる。それは、人間の私が、私の判断ですることではないし、私の功績となるようなことではない。「私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません」(ルカ17:10)とでも言うしかないような者なのである。表通りで「祈っていますよ」と宣伝するような真似をする自分であってはならない。そのような自分は、死なねばならない。
 
そこまで自分を抑えることができないとしても、ほんの少しでも、自分を捨てるとはどういうことか、私たちは日々日常で、自分に声をかけることはできるかもしれない。あまりに肩に力を入れることなく、淡々と、普通に営むことでもよいのだ。もしも、イエス・キリストに出会い、一度自分を変えられた経験をもつキリスト者であるならば、それができるのだと信じたい。
 
その祈り心で過ごすこの毎日の中で、ふと風が吹いてくる。「汝自身神の国であれかし」と、その風が耳打ちする。その風を運んでくる礼拝説教というものが、実に心地よい。厳しいと共に、優しい。それが、命を与えるという出来事である。神の言葉が出来事となる場がここにあるのであって、取りも直さず、それが神を礼拝するということであるのだ、と胸を揺さぶるものが共にあることを知ることになる。



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