お前たちのことは知らない

2022年11月20日

教会での礼拝説教とくれば、「良い知らせ」という意味をもつ「福音」に適うよう、喜ばしい内容を、説教者は選びたくなるものであろう。神はあなたを愛している。神はあなたを慰める。週の始まりを、そのような言葉で迎えることにより、一週間を生きる力が与えられる、ということが望ましいからである。
 
だが、聖書はそのようなことばかりを告げているわけではない。旧約聖書は特に、イスラエルへの厳しい審きが延々と続く、というような場面が多い。実は新約聖書も、そのようなものや戒めがたくさんある。どなたかちゃんとした統計をとってくださるとありがたいのだが、私はその厳しいもののほうが、分量的には多いのではないかという印象をもっている。
 
尤も、悪を滅ぼすような言い方が続く場面でも、その言葉の裏に、救いのメッセージが輝いている、という理解ができることが少なくないので、分量を問題にする、という発想自体が、間違っているのかもしれない。
 
説教者としては、ベテランになってくると、こうした悪を指摘するメッセージも、いくらか言いやすくなることだろう。敢えて厳しいことを告げる必要も、長年のうちに感じるであろうからだ。新人の説教者や、ゲストとして呼ばれた説教者は、なかなかこうしたきつい聖書の指摘を、思い切って真正面から掲げる勇気がもてないのではないかと思われる。
 
だが、ある若い神学生は、めったにないゲストでの説教の機会に、なかなか厳しい箇所を選んだ。ルカ13:22-30である。
 
「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と訊かれて、イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と答える。家の主人が戸を閉めたとあらば、いくら開けてくれと戸を叩いても、主人は「お前たちがどこの者か知らない」と答えるだけだ、というのである。いや、一緒に食べたり飲んだりしたではありませんか、教えを受けもしましたよ、と言ったとしても、主人は「知らない」と言い、「不正を働く者ども、皆私から離れよ」と言うだろう、とイエスは説く。そして神の国の外に投げ出されて、泣きわめき歯ぎしりをすることになるのだ、と言い放つのである。神の国では、世界各地から人々が来るし、後から来た者が先になるのだ、という聖書の逆説的な結論でこの場面が閉じられるものである。
 
救われる人の多さ少なさを問題にした質問者に向けて、「あなたがた」と呼び、神の国から締め出される、というような言い方をしているように見える場面である。しかし、これは明らかに、質問者に対して言っているのではない。ルカとしては、自分たちこそ神の国に入るに決まっている、と自負しているユダヤ人への強烈な批判をしているのに違いない。
 
なんとも後味のよくないペリコーペ(ひとまとまりの聖書箇所)である。これを、教会への批判として受け止めることができるかどうかで、福音へと転ずるかどうかが決まるものだと私は思うが、それにしても、わざわざこうした箇所から説教をしようとは、普通思わないものである。それを、かの若い説教者は選んだ。その勇気をまず称賛したい。
 
語るその教会に、必要なメッセージだと感じたからであろう。いまここで、この筋金入りの警告を受けることが、そこには必要だと霊により知ったのであろう。とはいえ、説教の中で、失礼にならないような配慮はしていた。「この教会がそうだ、と言っているのではありません」のような言い方である。だが、聞く耳のある人は当然分かる。わざわざこのようなことを言うということは、この教会が正にそうだ、というメッセージであるほか考えられない、ということに。京都人なら、ここを聞き逃すことはしないはずだ。
 
私の心に特に響いた指摘が、その中にあった。主人、もちろんそれは神である立場を示しているが、この主人が、繰り返して「お前たちがどこの者か知らない」と言っている。これは一見、神が人のほうを知らない、と言っているように見えるが、実はこれは、人のほうが神を知らないという点に気づかねばならないのではないか、という指摘である。
 
その通りだ。私はその点を教えてもらっただけで、この説教は大した意味のあるものだと感動した。正にここに、霊を目覚めさせる、視点の転換があるではないか。但し、説教そのものは、この点を深めることはなかった。説教の方向性というものがあったのだろう。それはそれで仕方がない。けれども、私の中では、そこからずんずんと深まるところへ、魂が駆け巡っていた。
 
深まるというのは、「知らない」というその方向性の逆転だけでなく、正にその「知らない」という言葉の包含する内容であった。
 
いったい、神が、人のことを「知らない」はずがない。ここで「おまえたち」と呼んでいる相手を知らないはずがないし、ユダヤ人を意味しているのであればなおさら、神が知らないということはありえない。あるいは神は私たちのことについても、全知であるはずである。だからこそ、あなたの悩みも辛さも、神はご存じなのであって、イエスの十字架が、あなたの救いとなるのである。
 
では、どうして主人は「知らない」と言ったのか。それは、このイスラエルの文化において、「知る」という言葉が、知識や認知に関する意味に留まらぬ、もっと強い意味を有しているからである。これは聖書を少しばかり学んだ人には必ず分かっていることであって、神学生も知らないということはありえない。
 
アダムがエバを知った、という創世記の記事は、具体的には性行為を指すと理解可能である。何もそれに限らず、「知る」というのは、全人格を懸けたような形で、他者同士が深い交わりをもつということを意味するのである。自分の全存在を与え、与えられるような形で、互いに深い交わりをなすこと、そうして強い絆が結ばれるような関係を築くことを、「知る」という言葉は表している。
 
主人は、おまえたちと、そのような関係にはない、と答えたのである。それはどうしてか。説教者が指摘したように、おまえたちの側が、神との結びつきの関係をもっていなかったからである。さらに言えば、元来あったその関係を、おまえたちの方が絶ってしまったからである。
 
「知る」とは、関係を結ぶこと。強い関係の中に置かれることを「知る」と言う。そもそも主人は、あるいは神は、人間のことを普通の意味で知らないはずはない。「あんたなんか、もう知らん」と人も言う。知らないはずがない。もうあんたとは関係を絶つ、というような意味で使っていると思われる。それと同じである。だが、その言葉は、いまここで関係を絶つぞ、と宣言したわけではないであろう。なんとかしてその関係を回復したい、との心理が隠されているに違いない。だから謝ってくれ、あんたが謝ったなら、この関係を今までのように続けるから、と言いたい気持ちが含まれている場合が、よくあると思えないだろうか。
 
神は私たちのことをご存じである。私たちとの関係を続けたいとお考えだと捉えたい。だが、私たちのほうが、神との関係を崩した。私たちが神を知ることから外れた。だから、神の側からも、人との関係を切るようなことを告げたのであろう。但し、神の言葉というのは存在を同時に表すことになるから、ここでは厳しく聞こえる。
 
それでも、これは私たちの上に、まだ起こっていないことだ。まだ主人は、戸を閉めてしまっていないと見てよいだろう。いまも神は、人を求めて関係を築きたいと手を差し伸べている。ただ、もしそれでもなお人のほうがそれを崩すのならば、神の方から関係を一方的につなぐことができない、ということなのだ。誰でもが救われるのだ、というロマンチックなことを、聖書は決して述べていない。それは能天気な勘違いだ。
 
一緒に食べたり飲んだり、つまりいくら教会で聖餐式に与っていたとしても、関係ない。教えを受けた、つまり聖書についての話を聞いたとしても、関係ない。まして、聖書について体験を伴って「知る」ことのないような人が格好つけて喋る、尤もらしい「お話」を聞いただけであっては、主人との関係ができていると言うことはできないであろう。教会は、真実に、神を礼拝するものでなければならないのである。神との間の、強いパイプが、そこにあるべきなのである。
 
その教会では、この瑞々しい説教は、今年一番の命ある説教であったと言えるだろう。この説教の指摘を投げかけられている一番の対象が、どうやら何にも聞いていない、また聞こえていないようなふうではあったが、霊の風を感じた方は、ほかにいらしただろうか。



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