日本語の単語と聖書

2022年11月16日

高校受験でも大学受験でも、英語について言及されるのが、単語はどのくらい憶える必要があるのか、ということだ。高校受験ならば、いまは小学英語があるために、2000語を下ることはないようだ。大学受験ならどうだろう。ざっと5000語くらいは標準となるのだろうか。高校生活で1日3個増やすノルマが課せられることになる。
 
ただ、日本語の単語の数はどのくらいか、という話が話題に上ることは、まずない。元々母語としての日本語が身についている場合、単語数を数えるという営みに意味がないからであろう。だが、これはもう少し意識すべきことではないか、という気がしてならない。
 
というのは、子どもたちの語彙が、どうやら年々少なくなっているように感じられるからである。「年々」という点には自信がない。教科書が厚くなって以降、改善しているかもしれない。ただ、本を読むための語彙がずいぶんと少なくなったのは、塾で長年子どもたちを見ていると、比較的確かなことだと思う。
 
新しい言葉については、やはりよく知っている。カタカナ言葉も知る必要があるから、単純に語彙が少ないと言うつもりはない。でも、そのような新しい言葉が増えることで手一杯になるようで、古来の生活で用いられる日本語が薄くなってしまった。また、少しばかり抽象的な概念を表す語については、全くその意味を、そして正にその概念を、理解していないということに愕然とすることがある。
 
古い言葉を増やせ、と主張するのは、確かに理不尽かもしれない。古典を読むための言葉を知らないことが、現代を生きるためにそれほど嘆くべきことだとは思わない。日本文化をより深く知ることができるようになる、という動機付けには嘘はないと思うが、言葉の古い意味を知ることが、それほど緊急の課題とは言えないであろう。
 
しかし、言葉について敏感な感覚をもっていないと、文章を書くことが難しくなるばかりか、書かれた文章を理解することができなくなる。また、近年取り上げられることが多くなったように、論理的に考える力が劣化していく。
 
人間は、言葉で考えるからである。
 
言葉は変化するから、昔の意味と変わっても問題がない、という意見をもつ人がいる。苟も国語を教える立場の人がこんなことを平気で言うとは思えないが、変化を踏まえてその語の新旧を共々知っていることと、誤解して広まった意味しか知らないということとは、深刻な違いがある。
 
もちろん、平安時代の意味と現代とは違う、などと言いたいわけではない。ごくごく最近のことだ。現代人が誤解して使うようになった意味だけが歩き始めるとき、過去の文献とその後の人間とをつなぐ糸が切れてしまうという危惧を、私は憶えているのである。
 
これは、信仰についても意識すべき問題である。新しい見方で、かつての信仰の意味をすっかり変えてしまうことの是非という問題である。昔が良かった、と言いたいのではない。現代人が改善した理解が悪い、と即断したいのでもない。ただ、「人権」や「民主主義」という新しい「神」が掲げられた世界では、信仰の歴史の中で貫かれてきたことが、直ちに悪と判定されることがよくある。それは教会の歴史の中での過ちであった、と考えるべき場合もあるだろう。そのときには、ぜひとも悔い改めをするべきだと私は考える。
 
そこまでいかないとしても、聖書を解釈する見方を変えてやり過ごす場合もあるだろう。聖書自体を悪としてしまわずに、聖書を現代に生かそうとする涙ぐましい働きがなされているようである。それもまた、大切なことだと思う。そのときには、なんとか聖書を弁護しなければならない、という心理が働くようである。そのため、時にまた怪しい論理や詭弁が紛れ込み、よけいにややこしいことになることもある。
 
幸い、聖書の原文と呼んでよいようなものは、いまも同じように遺っている。特に新約聖書の場合は、食い違いや書き換えが無数にあり、これが標準のものと決められるものがない。さしあたりこれでいこう、という基準を定めているだけで、原典オリジナルというものは、少なくともいまは存在しない。でも、さしあたりのもので勘弁してもらおう。とにかく、およそでもよいので、ほぼ元々の聖書の言葉が、今なお伝えられている、というところを重視したいのである。
 
それを自分の眼鏡で曲げてしまわず、しかし今の世に適用する、ということを許されながら、私たちは聖書を読み続けている。この聖書の語彙については、単語数を減らしてはならない。単語を知らないために、文意も読み取れないようになってしまってはならない。かつての意味と違う意味で読み取ることが、直ちに悪なのではないが、かつての意味も十分比較した方がよい。それが、己れを見つめる眼差しにもなるだろう。
 
本質的に大切な弁えは、普遍的な真理を客観的に定めなければならないと思い込まずに、聖書の言葉を通じて、あなたが神と交流することが大切だ、ということである。



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