思いを超えたところから

2022年10月30日

「カクテルパーティー効果」を思い出す。そこは、様々な声や音で雑然としたパーティ会場。だが、小さな声であっても、自分の名を呼ばれると、きっと気づくであろう。自分にとり必要な情報は、聞き取ることができる、という一般的な現象であるが、殊更に、自分の名には、気づきやすいものである。
 
名は体を表す。古今東西、呼ばれる名が、当人の本質を示すという考え方が浸透していたように思われる。個人名で呼ばれるよりも、役職名で呼ばれるほうが名誉である、というのも、その関係かもしれない。
 
アブラムはアブラハムに、サライはサラに、呼び名が変えられる。創世記の17章は、二人の名を改めた、決定的な場面である。その人の本質に触れる、重大な事件である。しかし説教によると、この名前の変化の意義は、私たちにはどうも明確ではないのだ、という。確かに、原語での意味がどうであるか、ある程度の研究はなされている。しかし、語源から探究してみても、はっきりした説明はできないでいる、というのである。
 
ただ、この改名は、ヘブライ文字でいくと、どちらも新たに「ヘー」(アルファベットではHにおよそ相当)という文字が新たに加わっている(サラの場合は置き換わっている)という共通点がある。この文字の付く言葉を探して、それを「歩き回る・旅する」という言葉なのではないか、と見る人の解説は面白かった(銘形秀則牧師)。私たちもまた、「歩き回る」という言葉に関わる様々な人間の営みを、信仰を以て続けていきたいものである。
 
この17章からもうひとつ、おそらく説教者自身が突きつけられたに違いない事柄がある。しきりに繰り返されていた、「私たちが思い描く神ではない」という、戒めにも近い命題である。そう、私たちは聖書に少しばかり馴染んでくると、神はこのようなお方だ、神はこのようにお考えだ、と口に出したくなる。もちろん、そのすべてが間違っているわけではない。しかし、聖書はこう言っている、という説教はやがて、「確信」という美名のもとに、自分のその捉え方を絶対視するようになっていくことがある。説教者に限らない。そもそも一般の信徒自身が、自分の信仰を唯一のものとしたくなる傾向性をもっている。否、それは信仰と呼ぶよりもむしろ、自分の願望、思い込みのようなものであって、結局のところそれは、聖書を読んで教えられた自分を誇るような心理に支えられただけの情熱なのである。神は、私ごときに包摂されるような存在であるはずがない、それは当然ではないか。
 
私も、そのような経験がある。それはそれで、神が自分を益へと連れ回すための手段ですらあった、と思い返してみるが、自分としては、若気のせいであるにしても、強い思いが一直線であった。しかし、自分が神のすべてを知っている、というような姿勢に浸るような事態からは、恐らく守られてきたのではないかと思っている。
 
それほどに、私にとって、神の超越性は豊かであったのだ。私によって捉えられる程度の神だったら、むしろ神ではない、というくらいの意気込みで、常に私自身を超えている神というものをひしひしと感じていた。さらに言えば、「神は超越者である」と唱えただけでも、その点で何かしら私が神を捉えてしまったことらになりはしないか、というくらいに懐疑的になっているくらいである(この意味がお分かりにならない方は読み飛ばして戴きたい)。
 
神と人との間には、如何ともしがたい超越的な関係がある。だが、神はそれを超えることができる。それを含めての、「全能の神」たる名であるのだと理解できる。神が、その深い溝を超えて、私に出会ってくださった。この出会いは私の確信である。神だけが、乗りこえるその境界は、やはりどうしても「死」というものが関わっていることだろう。人間にとり、いくら知恵と力を以てしても超えることのできないものが、この「死」である。しかし神は、その「死」を超えた。十字架の死は、復活により、いわば克服されたのである。
 
十字架の死と復活の出来事において、イエス・キリストが、「あちら」から来る。人には超えられない壁を超えて、来る。私から見れば、キリストが私に会うために、来る。私はキリストに出会ったと思う。だがまた、キリストからしても、私に出会ってくるのだという勢いがあるのではないか。しかも、それは決定的な救いの「時」に一度あったことを皮切りに、私たちの祈りと共に、あるいは気づかない間に、何度も何度でも、出会ってくるのだろう。

もちろん、そのように決めつけることは私にはできないが、少しばかり想像してみることならば、許されるのではないかと思う。そういうことが、きっと「信じる」という心なのであろう。
 
新たな名で、新たな人生を与えられた二人に、やがて約束の子が与えられる。イサクというその名には、「笑う」という意味がこめられているという。アブラムとサライの薄ら笑いのことであったかもしれないが、思い描くものを超えて出会いに来てくれたイエスにより導かれる希望の実現のための、無上の笑いでもあるのだ、と「信じる」ことも、アリだろうか。説教者はあまり強調しなかったが、紛れもなく、そこへ会衆が到着することを望んでいたはずである。



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