コスモスと特攻隊

2022年10月28日

休日を利用して、キリンビール福岡工場のコスモス園へ出かけた。3年ぶりの開催ということで、平日にも拘わらず、人々で賑わっていた。花園での飲食を禁ずるとしておけば、そう人と接触するわけでもない。広々とした花畑に、しばし夢の国にいるような気持ちを懐くことができた。
 
すぐ傍に、大刀洗平和記念館がある。もともと個人が始めたものを、いまは町立という形で、大きな設備のものにした。ちょうど小学生たちが、社会科見学であろうか、団体で訪れているのにも出会った。
 
大刀洗には、飛行場があった。民間機も一時離着陸していたそうだが、太平洋戦争にかけては、軍用機の発着所となった。特に、飛行学校であると共に特攻隊の中継地でもあったため、ここから多くの若い兵士が飛び立っていったことは、もっと知られるべきである(有名な知覧はこの大刀洗陸軍飛行学校の分校の一つであった)。
 
その兵士たちの顔写真が並ぶ部屋があった。こうした遺影を見るのは、沖縄の平和資料館以来かもしれない。15,6歳の人もいるし、およそ20歳前後が多い。彼らの遺した手紙なども展示されている。本気で考えていたには違いないが、国のため、天皇のために「いざ」という文章が並んでいるのを見ると、自分に言い聞かせていたのかもしれない、という邪推も混ざる。
 
概して美しい文字である。かつて人々は、文章を綴るということについて、心をこめ魂を注入するように、一言ひとことを噛みしめていたのかもしれない。それに比して、いま軽々しく出る言葉が、どんなに無責任で、残酷であることか、思い知らされる。
 
特攻隊というと、格好良さやロマンを感じる人もいるらしいが、敵艦を前にして、大部分は海上に撃沈される。3月の空襲のときも、B29のうち一機を撃破したが、その乗組員の顔写真と名前も、分かっている限り、かの遺影の間に並べられているのが印象的だった。
 
館内は撮影禁止のルールだが、例外があり、展示された三機の戦闘機は撮影可能であった。狭いコックピット、詰める爆弾のわずかなこと、ボーイング社の巨大な軍艦のごとき爆撃機に比べてなんと貧弱なことか。しかしその飛行能力は当時の技術の粋を集めたものであったものだという。飛行場であったことから、かなり詳しい解説が随所になされていた。専門的な内容は分かる術もないが、聞き知っていたことと重ね合わせると、やはりそれは凄いの一言に尽きるような作品であったことを感じた。
 
大刀洗陸軍飛行場は、第一次世界大戦後に造られた、西日本最大の航空基地であった。そのため、アメリカ軍の攻撃対象となり、1945年3月27日、B29爆撃機74機が襲った。1000発とも言われる爆弾が投下され、そのうちの一発だけで、頓田の森に逃げ込んだ児童31名が死んだ。そのことを思い出として語る女性を映画仕立てにしたものが、館内で上映されていた。
 
国民服や千人針の実物も展示してある。これらを直に伝えることは、実に大切なことだ。戦争は、物資の困窮を招き、生活が苦しくなるばかりでなく、生きることそのものが苦しくなっていく。人々の心は荒み、互いに監視し合い、ある意味で自己欺瞞を繰り返して、敵を憎むようにならねば、とても生きていけない情況に追いやられる。遺された品々から、私たちがどれほど、そのようなところにまで想像を重ねていけるかどうか、それが問われているような気がしてならない。
 
現実にいま、この戦闘の中に置かれている国があり、その報道も入ってくる。砲撃やその被害状況がリアルタイムの映像で目の前に現れるという、この時代特有の怖さもあるが、それが怖さを与えないままに私たちの心が冷え切っているようなことに気づくと、さらに恐ろしさを覚えるものである。
 
そして、そのような時代を再び呼ぶような準備が、着々と進められているということに、さしたる警戒もしていないという日常が、一番怖いと言えるのかもしれない、と感じる。私たちは、むしろ(言葉は不適切であるが)平和のための特攻隊でありたい。うまいこと利用されて、反平和に加担させられていく現状に気づかねばならない。「ペンは剣よりも強し」程度の喩えでは有効になれないかもしれないが、そのスピリットを保つことは、決して小さなことではないはずだ。
 
いま、そこにコスモスが咲いているということは、なんとも尊い象徴であることだろうか。



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