私は聖書を学ばない

2022年10月25日

礼拝説教で、違和感を覚えるひとつの言葉は、「学びましょう」という言い方である。聖書を説明する。そしてそこから、何々を「学びましょう」という件(くだり)である。
 
私は、聖書から、特に説教から学びはしない。教えられはするかもしれない。ただ命じられるというように捉えることもある。また、気づかされるということは度々ある。説教が神の言葉であるのならば、こうしたことはあたりまえのことだと理解している。言うなればその背後の存在に「ひれ伏す」感覚であろうか。だが、聖書が神の言葉であるのならば、そこから「学ぶ」という言葉で表現できるような感覚は、私はもつことがない。
 
もちろん、言葉尻を捕らえるつもりはないから、説教者が「学ぶ」という言い方をしたからダメだ、などと言うつもりはない。深層心理が妙だからついそういう言葉が出るのだ、といった、心理学を究めたようなことを言うつもりもない。ただ、あたりまえのようにしばしば「学びましょう」という言葉を使う人の説教を、よくよく聞いていると、一定の傾向が見えてくるということは、あるような気がする。
 
結局、聖書というものを、他人事として読むか、そこに自分がいると読むか、の違いが浮かび上がるのである。もちろん「学びましょう」というのは、聖書を対象化する、前者の他人事としての読み方に伴って頻発する可能性の高い言葉である。
 
確かに、聖書の出来事や教えを、現代の自分たちの社会の状況に照らし合わせて解釈する、ということはある。それはよく「適用」などともいう。自分たちの見渡す世界と、聖書の内容とがどう関係するか、という点に思いを馳せるのである。
 
実際、聖書の記事のような点を信じようとし、希望をもちましょう、と呼びかけること自体が、悪いことではない。だが、そこに自身がどう関わるのか、そうした視点が抜け落ちている場合が、そこにはあるのである。「他人の意見を尊重するということが、民主主義には必要だということを学びましょう」とでも聞いているのと同じようなものを感じてしまう。確かにそれは正しいかもしれない。だが、だからどうするのか、私はどうすればよいのか、何も言及しない。実際にそれを実現するには、どのようにすればよいのか。何をどう考えればよいのか。全く言及しない。それとも、後は個人で考えろ、ということなのだろうか。個人で考えるのが、信仰というものだ。説教は、看板だけ掲げておけば十分であり、あとは自己責任で、どうすればよいのか考えたまえ。それが個人の自由と多様性を尊重する教会のポリシーなのだ。そんなふうに言うつもりなのだろうか。
 
この聖書の場面には、私が登場しています。私がその現場に置かれました。私は問われました。神に、あなたはどこにいるのか、と。――このような神との交わりと信仰をもつ説教者は、わざわざそのことを特に口にしなくても、聴く者には伝わってくる。なぜかというと、あなたはこの聖書の場面のどこにいるか、と説教で問いかけるからである。問いかけていることが伝わるからである。そのとき、聴く者は気づく。聖書の風景の中に立っているから、イエスの表情が見えてくる。そこで泣いている人の涙が見える。人々の白眼視を感じる。いやらしい風が取り囲む面々から吹いてくる。それらを感じるとき、私はそこにいて、神の声を聴くことができる。その説教は、こうした場に、私を連れて行く。それまで見えなかったものが見えてくる。
 
毎週の礼拝説教の中で、新たな気づきを与えられる。本当に、ハッとさせられる一瞬を体験する。そして、それを心に握りしめて、一週間生きていこうと納得し、それを糧として、すなわち命として、歩んでいく。
 
このような経験により、私は毎週、新たな命に生かされる。こうして繰り返される営みを、私は決して「学ぶ」とは呼ばない。呼ぶことができない。



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