1ムナの信仰

2022年10月23日

ルカによる福音書の19章とくれば、「ザアカイ」の話が真っ先に出てくる。これは、教会学校の子どもたちにもおなじみである。その次に、この「ムナ」のたとえが現れる。これは、あまり注目されない。マタイによる福音書にある「タラントン」のたとえに、もはや吸収されているような立場になっている。あれと同じだよ、と。
 
構造的には、確かに似ている。だが、中身はずいぶん違う。価値の大きさもだが、ルカのほうは、憎まれる王であるとか、打ち殺すとか、ずいぶん物騒である。私は、なんだかその辺りに、目を奪われていた。
 
だが、この説教者は、10人の僕に、10ムナを与えた、すなわち1人に1ムナずつ与えられていたというところに着目した。商売をせよということは、活用せよ、という意味であろう。
 
ある者は、それを元手に、10ムナを儲けた。次の者は、5ムナに増やした。主人はどちらも褒めた。但し、3人目は増やしていなかった。商売が下手だという意味ではない。活用しなかったのだ。隠すしか能のなかったその僕の1ムナは、取り上げられて、他の者に与えられることとなった。
 
私たちが――私が、そこにいる、というのは、当然の読み方である。どこにいるのか。1人目の優れたやり手なのか。とんでもない。2人目も難しい。かといって、3人目にはなりたくない。
 
説教者は指摘する。ほかの7人について、聖書は沈黙している。他はどう評価されたのか、全く言及されない。それは、関心がないせいなのか。否、そこにこそ、あなたがいる。私がいる。私はその4人目か、5人目か、定かではないにしても、問われているというのだ。あなたにも、1ムナが与えられているではないか。あなたは、その1ムナを、どう活用したのか。あるいは、これから活用するのか。その問いかけがあるからこそ、このたとえがここに存するのであり、あなたが、私が、いまこれを聞き、あるいは読んでいるのである。
 
1ムナの信仰。説教題はそれではなかったが、これこそが、メッセージのど真ん中であったはずだ。与えられている1ムナと、それを与えられるほどにまで主に注目されたこの私。そのことを、信じるか――「アーメン」と応えるばかりである。



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