統一協会とキリスト教界

2022年10月20日

国会中継に、つい見入ってしまった。首相は、統一協会問題で激しく責められている。前日に、解散請求のためには刑事罰が必要だと説明していたが、この日は、民法における不法行為も可能だという見解に修正した。非常識な献金を、信仰という名目で払わされた信者ないしその家族などの被害者を救済するという建前で、国会が一つになり、統一協会問題に立ち向かう道を作りたかったのであろうか。自民党内部への追及を少しでもかわしたい故かもしれないが、政治の裏の裏のところはよく分からない。
 
ただ、これまで自民党を中心とした政府に巧みにつながり、宗教を利用した政治団体としての統一協会は、これまでの方法が使えなくなってきたことで、対策を立てなければならなくなってきたと言えるだろう。社会の側にしてみれば、40年ほど前から明らかだったことが、ようやく認識され始めたのだろうが、この間どれほどの人が犠牲になり、そのためにいま表に出ている弁護士やジャーナリストが、どれほど危険を伴いながら苦労して闘ってきたことか、まだまだ知られていないことが多い。
 
一般の(という言い方がよいのかどうか分からないが)キリスト教会は、その教会案内に「統一協会とは関係がありません」という文言を、ずっと掲載してきた。他の団体と併せて、「異端」と呼んできた。最近はそれのない、スマートな案内が多くなった。ということは、若い人は統一協会の存在自体を知らないという可能性もある。
 
キリスト教界は、今回の一連の動きを、どう見ているのだろうか。やっと異端の悪が暴かれて裁かれるのだ、と溜飲を下げるような思いの組織や指導者が、いるのだろうか。私には分からない。だが、多くの人が恐らく気づいているだろうと思うが、これは決して「対岸の火事」ではない。
 
キリスト教界で、献金を巡るトラブルは、実はあるからである。献金は信仰の証しなどと言いくるめられて献金をしてきたが、もう教会に行かないという人が、返してくれ、というようなトラブルである。これは、実際そうした話を聞いたことがあるので言っている。だがもしかすると、いまあちこちの教会で、本当はそうした厄介なことが起こっているのかもしれない。
 
もちろん、霊感商法と呼べるものではないだろうが、広い概念で包めば、洗脳されて支払ったという構図の中に入っているとしてもおかしくはない。少なくとも、献金制度をもっている教会ならば、すべて無関係ではないのだ。
 
聖書を知る、ということは、聖書の記事が、自分の問題だ、と感じる心をもっている、ということである。従って、健全な信仰をお持ちの方は、今回の献金にまつわる問題を、自分のこと、あるいは自分の教会にも関わることとして、胸を痛めていたことだろうと思う。献金の被害者救済のために祈っていなかったこと、家族を統一協会に奪われて泣き悲しむ人々の痛みを忘れていたことなど、いま悔い改めの祈りを献げている方も多いことだろう。
 
さらに、「宗教二世」の痛みがいま各地で打ち明けられているが、キリスト教界もこの点では完全に問題の最中にあるはずである。そのことに悩み、心苦しいキリスト者も多数いるはずである。ただ、そのような心苦しさを抱えるキリスト者こそ、キリストの愛を知る人であり、聖書を適切に呼んでいる人であるだろう、と私は信じている。
 
いや、これは彼らだけの問題だ。キリスト教界は関係がない。――まさか、そんなふうに考える人は、キリスト教界にはいないと思うが、もしもいたら、私は決して近づきたくはない。尤も、そちら側から、私などには関心をもつことはないだろうとは思うが。



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