「私たち」という言葉(続)

2022年10月15日

難しい言葉で説明されると、理解するのも難しくなるだろう。前回の「私たち」という言葉について、もう少し具体的に改めてお伝えできたらと願いつつ、触れることにする。
 
1.自分と共通項をもつ人々と、語る自分とを含む「私たち」
 
誰かほかの人がいて、その人たちと、私とが、皆該当しますよ、ということを言いたいときに、私が使う言葉が、この「私たち」である。至って普通の感覚だと往っていと思う。説教者が、「私たち」という言葉を使うことは、自分も教会員もどちらもそうですね、という意味で使うはずである。
 
つまり、通常「私たち」という言葉は、自分と周囲との、強い連帯を示すものなのである。複数の人間が、一つになっている情況を訴えるための言葉がこれである。それは、ヨハネによる福音書にある、父とイエスとがひとつであるとか、弟子たちをひとつにしてください、という様子と重なるものなのである。
 
2.自分とつながりはあるが、そこに語る自分が含まれない人々を指す「私たち」
 
「あなたたち」という言葉を使うべき場面で、「私たち」という言葉を使う人がいる。教師が生徒たちに「私たち」というとき、生徒たちも、その「私たち」に、語る教師が含まれていないことは、いわば了解事項である。明らかに了解されている場面で使うのであれば、ひとつのお約束である。だが、そうでない場合はどうなるだろうか。「あなたたち」という言葉の代わりに「私たち」と言うことによって、語る側では、自分はそこには入らない、という心理をもっているのに対して、聞く側は、あの語り手は、自分たちと同じなのだな、というふうに錯覚してしまうことがある。
 
不誠実な政治家が、「私たちは値上げに苦しんでいます」と選挙演説している様子を想像すると分かりやすいかもしれない。金持ちの政治家は、少々の物価上昇にそれほど苦しんではいない。投票する皆さんは苦しんでいますよね、と言いたいだけで、自分は実は違うという情況がそこにあるわけである。が、聞く側は、そうだ、自分たちは苦しんでいるのだ、という感覚があるために、その政治家の「あなたがた」の意味で使う「私たち」を、自然と受け容れてしまうのが通例である。
 
先ほど、「私たち」という言葉は、強い連帯を示すものである、と述べた。複数の人間がひとつである、という様子を示すための言葉だったのである。だから、この「私たち」と述べた文が成立したときには、語る者と聞く者との間に、強い連帯があるという認識がなされていることになる。ただ、語る者が聞く者を利用しようとして、連帯していると錯覚させるために、「私たち」という言葉を使ったとしたら、これは悪質である。政治家の悪い例であれば、恐らくそれは意図的にやっている。だが、意図してではなく、無意識のうちにそれをやっている者がいるとすれば、それは根っから悪い性質を宿していると言われても仕方がないであろう。
 
このタイプの説教者がいるとは信じたくないだろうが、実はいる。「私たちは信じています」と、いかにも聖書から語っているような演技をするものの、実は自分は信じていない、というような場合である。クリスチャンならそうだ、という内容を語らなければ、説教の形にならないものだから、自分というものがその語る内容に当てはまらないのに、「あなたたち」はそうですよね、と体裁ばかりをとっているのである。聞く側も、それをすっかり受け容れてしまって、この偽りに気づかないし、気づこうともしないということもある。
 
聖書の中には、イエスの言葉であったり、手紙の言葉であったりするが、さかんに「あなたたち」という呼びかけがある。これを説教で語るときには、語り手としては「私たち」という表現で受けることになる。「私たち」と称すると、聞く会衆としては、当然、説教者も自分たちと同じように感じているのだ、と思い込んでしまう。だが、そうではない場合が実際にある。いつもいつも、自分が疎外された状態でありながらも、癖として「私たち」という言葉を使う者がいるのである。
 
思い当たるふしがないだろうか。自分がその教会に来て間もないのに、その教会に昔いた人のことに触れて、「私たち」と繰り返すような、不自然な語りを聞いたことがないだろうか。当然語り手は、会ったこともないし、人物を知るわけではない。だが、「私たち」がその人を知っているという具合の話し方を、自然にするのである。これは、癖なのである。自分を含まない形で「あなたたち」と言わねばならない場合に、「私たち」という言葉を使う癖なのである。それは、ふだんから、自分は神との出会いを知らないし、神からの言葉を受けたこともないのに、そういう経験があるかのように振舞わなければならない、と潜在的に感じている故に、おそらく無意識なままに、そういう語の用法をしてしまっているのであろう。
 
なお、相手の気持ちになって相手の目線での言葉を使う、という現象は、日本語でよく起こっていることを思い出す方がいるかもしれない。「おのれ、何をする」「自分、どう思う?」「ボク、何歳?」「などは、文字通りに見れば語り手自身のことを指す言葉であるが、誰もそのようには受け取らない。相手のことを自身を指す語で呼んでいるのである。だから、「私たち」という語を、「あなたたち」という意味で使うことにも理由があるのではないか、という考え方もある。だが、「ボク、何歳?」のほうは、語り手と聞き手との連帯を促すことは基本的にない。「私たち」は連帯感を含む故に、それを自分を含まない形での「あなたたち」の意味で使うことは、その「あなたたち」が、語り手を勝手に仲間に受け止めるように仕組むこととなるために、区別しなければならないと思うのだ。
 
3.自分と基本的に関係のない立場の人々の中に、語る自分も含まれることを、想定しての「私たち」
 
これも、本来の「私たち」の使い方とは違う。普通に考えるならば、「あの人たち」としか呼べないような他人と、語る者自身とが共通である、という捉え方をしている様子を表す使い方である。
 
これまでにも幾度かお話しした例であるが、尼崎での列車事故が2005年にあったときのことである。わずかな列車の遅れで厳しく叱責される運転士が、遅れを気にして列車を暴走させた結果、カーブで曲がりきれなかった車体がその場にあったマンションに突っ込み、百人以上の人を死なせた事故である。事故についてインタビューを受けていた年配の男性が、「これは私たちが起こした事故だ」とマイクに向かって話し、悔しそうな顔をしていたのを、私は忘れることができないのである。私はこう想像した。わずかな遅れで利用者はJRにクレームをぶつける。これを受けて、会社は乗務員に厳しい態度で臨む。それで運転士が暴走させた。もしこのように考えるならば、利用者や市民が、この事故を起こしたと考えることもできる。
 
この人の感じ方がもしそうであるとすれば、私に似ていると思う。私はそんなに誠実な人間ではないが、人の痛みを自分のことのように感じたり、悪いことは自分のせいだと感じたりすることがある。そしてそれは、キリストに出会ってから、そう感じるようになった。それまでは、人の痛みなどまるで分からなかった人間だった。もちろん、いまはよく分かります、などと豪語するつもりはない。気づかない鈍感さの酷さは折り紙付きだ。しかし、感じることが、確かにあるということだけでも、以前の自分からすれば、全く違う景色が見えるということになる。昨日は夢の中で、おまえは何も気がつかないのか、と思い知らされた場面があった。自分のためにどれだけ人が苦労し、迷惑を被っているのか、分からないのか、という具合であった。
 
半世紀前からどういうふうであったのか統一協会について知っているならば、どうしてもっとその危険性を訴えなかったのか。もっとマスコミにも働きかけるようなことを、していれば、もう10年も20年も前に、いまのように政治家との関係だって問題にすることができたかもしれない。そうすれば、今年の夏は違った社会になっていたかもしれない。行方の知れぬ娘をもつ方のために、何かできなかったのか。原理講論を世界の真理だと信じ込んでいたあの学生に、神の愛を示せなかったのか。
 
本来私は何の関係もないであろう「あの人たち」と、私は共にいるような意識が、生まれることがある。それは思い上がりかもしれない。あんたのような者に私の気持ちが分かるものか、と叱責されるかもしれない。確かにそうだ。けれども、事故や犯罪での被害者の報道を聞くときに、胸が締め付けられるような思いがすることがあるし、それは私自身にも責任があるのだというような気持ちになることがあるのは、否むことができない。
 
イエス・キリストは、「腸がちぎれるような」意味をこめた言葉によって、人を憐れんだ。私はその足元にも及ばないが、この気持ちの延長に、キリストの歪んだ顔が見えてくる、というふうに思ったことはある。キリストは、「あの人たち」の中に、自身を見ていたのではないだろうか。そのつもりで、「私たち」と語ることができたお方であったに違いない。そしてそれが、「あなたがたと共にいる」という意味の、切実な痛みではなかっただろうか。
 
「私たち」という言葉ひとつからでも、「私たち」は、神と出会うことができるはずだ。どんな場面にでも、神の光は射すことができる。「私たち」は光の当たる道を知っている。徒に「闇」という言葉を繰り返す者がいるが、それが何を指しているのかは殆ど言わない。恐らく自分の心の内にある闇がちらついて、つい言葉が出てくるのであろう。
 
さて、いま言った「私たち」が、挙げた中でどの部類であるか。それは、お読みになった「あなた」に懸かっている。



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