「私たち」という言葉

2022年10月13日

英語の文を日本語訳するとき「he」を「彼は」と訳すのは、当たり前となっている。だが、考えてみれば、これは本来の日本語ではないような気がする。日常、そんな言い方を、果たしてしているだろうか。多分、していない。だから私も、違和感を覚える。実際、小学生用の英語の教材では、「その男の子は」のような説明をしていることもある。
 
それに対して、「we」を「私たちは」と訳すことについては、そこまで違和感を覚えない。元は「我らは」「わしらは」などの言い方だったかもしれないが、「私たちは」は、日常普通に使われる言葉のように思われる。だが、ひとつ注意して戴きたいことがある。「私たち」には、幾つかの、決定的に異なる意味が潜んでいると私は思うのである。
 
そこで、「私たちは」と口癖のように語る人が、次のうち、どのような意味で「私たち」という言葉を使っているか、を振り返ってみたいのである。
 
1.自分と共通項をもつ人々と、語る自分とを含む「私たち」
 
これは、いわば普通の「私たち」である。その「私たち」は、自分とつながりのある人々を含み、同時にそこに私自身も含まれる。至って当たり前の構造である。例示するならば、学校のクラスメイトについて、そのクラスの一員が「私たち」と称する場合である。あるいは、スポーツチームで、同じチーム全体のことを指すのに、そのチームの一員が「私たち」と言う場合である。語る者も他のメンバーを知っているのはもちろんだが、他のメンバーもその語る者を知っている情況がここにある。一種の仲間意識がある、とも言ってよいだろう。
 
2.自分とつながりはあるが、そこに語る自分が含まれない人々を指す「私たち」
 
奇妙に思われるかもしれない。「私たち」は「私」を含む、というのが、「we」にしても暗黙の了解だと、通常考えられているからだ。だが、日常的にこれはよく使う。学校の授業で言えば、教師がこんなことを言う場合がある。「私たちは受験に向けて頑張ろうではないか」と、教師が呼びかけている様子を想像してみよう。あるいは、スポーツチームでは、監督かコーチかが、「私たちは最後まで全力を出し切ろう」と呼びかけることがあるだろう。確かに「君たちは」と言うケースもあろうかと思うが、実際の場面では、恐らく「私たちは」の言い方がよくなされるのではないかと思う。
 
言うまでもなく、受験勉強をするのは生徒たちであって、教師ではない。全力を出し切るのは選手たちであって、監督ではない。だが、当事者自身ではない教師や監督が「私たち」と言うことで、一緒に頑張るというようなつながったイメージを醸し出すことが期待されているのではないかと思われる。教師も受験しているかのように、監督も走っているかのように、思わせるのである。そうすることで、一緒だぞというような一体感を、生徒たちや選手たちは、錯覚する。論理的には、教師は受験しないし、監督は走らないのであるから、「私たち」を用いるのは、人称の理解からすれば間違っているのであるが、そこに文句をつける生徒や選手は、恐らくいないだろう。自分とつながりはあるが、そこに語る者自身だけは含まれない、という「私たち」の用法があるのである。
 
3.自分と基本的に関係のない立場の人々の中に、語る自分も含まれることを、想定しての「私たち」
 
本来、「私たち」と仲間のように言うはずのない人々に対して、語る者がそこに入っているかのように見なしている情況が、ここにある。「私たち」と語る者のことを、知るはずもない無関係の人々と、語る者がいわば勝手につながっているという意識で「私たち」という言葉を使う場合があると思うのである。学級内での発言として言えば、「私たち高校生は、受験するときは皆真剣に将来のことを考えている」と生徒が語る場合である。高校生一般にまで広げて「私たち」と言っているが、それが指している高校生たちの中には、それほど真剣に考えていない人々がいるかもしれないが、それも勝手に含めているし、語る者自身もその一人だという自覚があるから、当然そのように言っているであろう。大多数の「私たち」なる高校生は、この語り手のことは、知らないだろう。スポーツ選手でも、同様のことが起こるはずである。
 
尤も、この場合には、「高校生」という共通項があるために、認知は互いにないにしても、最初のケースに当てはまる、という考え方もできようかと思う。「共通項」という語が、どこまでその領域を広げるか、によって受け止め方が変わってくるものと思われる。しかし実は、社会的な言明になると、このような「私たち」の使い方が非常に多くなるように見える。SDGsは、「私たち」がつくる持続可能な世界を目指す取り組みであるが、この「私たち」とは誰であろう。もはやSDGsに無関心な人々全員を巻き込む形で、勝手に「私たち」とカウントしている。政治的な発言の場合は、実に意見の対立する論敵をも含む形で「私たち」と称することが多々あることだろう。
 
なお、そこに語る者自身が含まれない、という可能性も、論理的には分類すべきであろう。「私たち」は環境を守らねばならない、と言いながら、自分自身がそれに反することを常にやっている、という場合である。しかし、これは不誠実である。それはむしろただの偽りを述べているだけであり、単なる不誠実な発言であるから、言明として成立させるべきではないものだ、として今は認めないことにする。上の三つの分類は、それぞれの「私たち」の使用法が、さしあたり問題なく使用されており、それを誰もが認めている、という様子を示しているものとお考え戴きたい。
 
この「私たち」の分析は、私が勝手に思いついたものである。もし、すでにそのような研究がなされ、学的に規定している方のことを、ご存じで有れば、ぜひともご一報戴きたい。大いに参考にしたいし、学びたいと考えているからである。
 
さて、こんなややこしい話をどうして持ち出したか、というと、これが、聖書の読み方、否、特に語り方における、重要な鍵だからである。あなたの教会で、説教を語る人が、これらのどれに該当して「私たち」という言葉を使っているか、ぜひ吟味して戴きたい。特に、実際には(2)であるのに、そうすると、私がこれまで盛んに繰り返している、説教の「せ」の字にもなっていないまやかしを、見破る眼差しを得ることができるかもしれない。そう期待できるからである。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります