家庭教師などのこと

2022年10月9日

まだあの頃は、家庭教師の仕事があった。京都ならでは、だったのかもしれない。家庭教師を、名だたる大学ではない凡庸な学生に頼む、というのも不思議ではある。家庭教師のニーズがあることについて、考えるところはあるが、軽々しい邪推で偏見を呼んではいけないので、呟くことはしないことにする。
 
大学からの紹介で、すぐに下宿を決めた。古い建物だった。自炊ができて、空間があり、家賃が安いとなると、満足だった。もちろんトイレはあるし、浴室もある。洗濯機も置けた。何より自炊は、念願だった。当時は物価がいまとは違ったとは思うが、牛乳や卵はいまのほうが価格が安いかもしれないほどで、生鮮品にしてもそんなに違わない印象がある。安かったのは既製品や外食である。しかし、それでも1日あたり食費は400円と決めて、やりくりしていた。そういう生活の中で、大家さんの高校生の息子さんに家庭教師をしてくれないか、とそちらの方から打診があった。家賃分を戴くことができたので、奨学金と併せ、一回生のときからずいぶん助かった。
 
後に、大学の先輩から、大阪のほうで家庭教師を探している、という話があった。阪急電車からしばらく歩く場所だったが、二人の高校生兄弟をしばらく教えた。
 
そのまた後だが、教授から、祇園のええとこのお嬢さんの家で所望があるという話で出向いたが、一度で嫌われた。料亭のようなところだったと思うので、その日だけよい食事を戴き、すごすごと帰った。教授も同情し、別の、少し庶民的な食事処の中学生の息子を紹介してくれた。これは長く世話して戴いた。勉強の後、食事を戴けるのも有り難かった。「売るほどある」とご主人は笑ってふるまってくれた。生活もずいぶん助けて戴いたわけで、感謝するばかりである。
 
いまの時代だと、家庭教師のアルバイトも、組織化されることが殆どだろう。私も塾の講師に応募して始めたことがあったが、それはフランチャイズ制で、各地に派遣して子どもたちをまとめて見るという感じだった。その組織がなんだかうまくいっていないようで、そのフランチャイズの教室のオーナーが、そことの契約をやめると言い始め、私に残ってやってもらえないかともちかけてきたので、私も組織とは関係ない形で続けた。オーナーは、自分の息子の面倒をみてほしかったのだ。
 
結婚を意識する中で、YMCA進学教室の講師募集に応募した。ここは、キリスト教精神で運営されているということのほかに、組織としても本当にしっかりしていた。実に丁寧な応対が徹底しており、信頼が置けた。また、こちらも信頼に応えようというふうに動いていく。営利団体ではないので、高額な報酬とはいかなかったが、不満はなかった。そのうち、大学院を退学し、結婚生活に入った。
 
しかしYMCAは、紳士淑女的な教育は優れていたものの、京都の受験業界では勝ち残れなかった。次第に教室を閉める動きに入り、その教室の最後の時期に、現場をすべて任されることとなった。そして、その中で阪神淡路大震災が発生した。
 
いつか福岡に戻る予定ではあったが、このとき、すべてがその動きになびいていった。震災の1年後、教室を閉じるのと共に、福岡に戻ることになり、いまの民間塾のテストを受けた。入社試験は算数と数学、中堅どころの中学入試問題と、福岡県の公立高校の入試問題を解かされた。満点だったこともあり、入社を許された。年齢的には会社の上限だったと思うけれども。
 
いろいろあって、正社員を続けるわけにはゆかなくなったが、いまなおそこでなんとか生き残っている。折りに適った助けが、その都度あって、ここまで導かれてきたのだ、と改めて思い返すものである。



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