いのち

2022年9月21日

教会での礼拝説教はいのちを与えるはずだ。これまでも幾度か繰り返してきた。ではその「いのち」とは何なのか。私は説明したことがない。実はこれは、難しい問題なのだ。単純な定義もできないし、聖書から拾い上げて示すこともできない。第一、私自身がそのすべてを理解しているわけではない。理解もしていないことを以て、平気で説教について言及していたのだから、ある意味で詐欺的であったことになる。それは否定しない。
 
それを今、罪滅ぼしのつもりで、いくらかでも語ろうと考えている。ここでも、適切に論ずることはできないため、辞書や特定の解釈に基づいて少しばかり紹介し、私の印象と、皆さまへの示唆という段階で留めることになる。それはお詫びするが、ここからはそれぞれの方が、自分なりに受け止め、また考えてくだされば幸いである。
 
新約聖書の「いのち」は、いま関わらないことにする。ギリシア語は、イスラエル文化からみれば外国語である。日本人の考えを英語の単語から説明することが本質的な洞察になりにくいのと同様に、イスラエルとイエス・キリストが想定していた「いのち」を、ギリシア語の中に求めることは、参考にはなるが、本質そのものではない、と考えるためである。
 
ヘブライ語については、私は無知に等しいので、「新聖書辞典」(いのちのことば社)に語ってもらうことにする。
 
旧約聖書で「いのち」を表す言葉には2種類あるという。ひとつはハッイーム、もうひとつはネフェシュという言葉だそうだ。ハッイームは複数形。もともと活気あふれることを表し、いのちそのものを指すだけでなく、いきいきした生命、健康と幸福とを伴う生命を表す。ネフェシュは普通たましいを意味するが、からだと結びついていのちを表す場合が多いという。
 
現代的なイメージで捉えてしまうのは危険なのであるが、私は前者の中に、「エネルギー」のようなものを感じた。あるいは「気」にも似ているだろうか。後者には、新約聖書で使われている「プシュケー」に近いものを覚えた。これもまた元々「魂」と訳しうるものではあるが、生きている存在全体を指すように考えられている。それは「心」とも訳されるが、心身二元論に陥らないように気をつけなければならない。
 
しかしこれだけではなんとも分からない。もっと、イスラエル文化の中で、人と神とがどのような関係にあるか、そうした大きなスケールで捉えなければ、この型どおりの説明では把握できないであろう。つまり、神が与えるものとしての「いのち」、神との交わりから神により支えられる「いのち」、人の罪がそのつながりを絶つものとなるような「いのち」などを見つめなければならない。さらに、まず神が人に語りかけ、それに応答することによってその交わりが生まれることなどを含めて、神と人との関係の中で、「いのち」は体験するべきであることも示唆されるであろう。
 
ここで、より異常な禁手を使う。ギリシア語からでもよくないと言いながら、日本語を持ち出すというのは、最悪の詐欺である。ここで、中国の漢字を使ってみよう。聖書を時折中国の漢字の成り立ちから福音と称して説明するものがあるが、私は好まない。だからこの「いのち」についても「命」の意味を説くことは、私はよくないものと考える。それでも、何かヒントになるものがあれば、参考にしてみたいのである。
 
漢字の「命」は、実は元は「いのち」ではない。訓読みだから、という意味ではない。これは「令」+「口」だということはほぼ確実であるという。関心のある方は、いろいろ調べてみるとよいと思う。漢字については権威のある白川静先生の考えをここでは踏襲するが、「口」の字を、先生はただの口の意味とは見ない。宗教的なものだという。神への祈りの言葉を入れる器のことである、とするのが白川博士の功績である。「令」の字は、ひざまずき神のお告げを聴く人のことだ、という理解が、それに加わると、「命」とは、神に祈る人に与えられた神の言葉であるような意味をもつ、と考えられることになる。
 
もちろん、違う理解もあるようなので、これがすべてではない。神というよりも、君主の言うことを人が集まっている様子、という程度に捉えるべきだ、とする人もいるし、その他いろいろな解釈があるのではないかと思われる。ただ、どの場合から考えても、「命」という漢字は、生命のことではなく、むしろ「命令」の意味に傾いていることが見てとれるようである。なお、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)のように「命」を「みこと」と呼ぶおなじみの読み方は、使命を受けた神にとっての「御言」を表すという説があるそうだ。
 
神の命令により与えられるものとしての生命に、やがて「命」の文字が使われてきたのではないか、という説明がある。言語学や漢字学からしてどうなのか、私は知らない。また、この中国での漢字の捉え方が、キリスト教に基づくようなふうに言うつもりなど、毛頭ない。それでも、地球の別の場所で、神の言葉を受ける人間の姿を思い、そこに人間に与えられた命というものを見つめていた、というのは興味深いことではないだろうか。
 
教会での礼拝説教はいのちを与えるはずだ。最初に、この言葉を掲げた。神の言葉を語ってほしい。時に人に罪を知らせ、さらに人を生かす言葉を語ってほしい。自らを省み、語る者も自らを問い、だからこそ証しできる力強い神との交わりと関係を、語ってほしい。これを毎週聴いている教会の信徒は幸いである。しかしそんなものを聴いたことのない教会の信徒は、(最近は質がよくなっているが)インスタントコーヒーしか知らずに、コーヒーというものを知っているよ、という気持ちになっているに等しい。否、もしかすると、コーヒーではないものをいつも飲まされていながら、それをコーヒーだと思い込んでいる場合もあるだろう。また、そもそも説教そのものに全く関心をもっていない教会というところも、残念ながら存在する。そこに「いのち」はないのに、気づかないのである。
 
「いのち」を巡る考察は、まだまだ続くだろう。「いのち」を知る人が、様々な形でそれについて語り合うような場があってもよいと思う。礼拝の後に、そんな話題が交わされるような教会は、ほんとうに幸いである。



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