羊飼いとの出会い

2022年9月18日

2022年の初めに発刊された『他者と生きる』(磯野真穂・集英社新書)という本を、ちょうど読んだところだった。医療とリスクといったテーマから、溢れる情報にのみ囚われて、大切な自分というものを見失っているようなあり方に、目を向けさせてくれるような気がした。それを見失うのはまた、他者を見失っていることでもあるようにも思えてくるのだった。
 
その本の終わりのほうで、時間について考察していく。何歳まで生きるというような、物理的な時間だけが、人にとり意味ある時間なのだろうか、という疑問について応えるような場面であった。
 
私たちは、できるだけ波風立てぬ、昨日と同様な今日や明日を望む心理をもっている。これまでと違うことをすることには、恐怖を覚えることがあるのだ。そのために、「出会い」なるものが、なかったことにする傾向があるのである。だから、当たり障りのない会話を好むのである。
 
けれども、人生においては、「なかったことにする」ことができない事件が起こることは避けられない。その時には、周囲の人々との関係が揺れ動くし、新たな変化の中で「生き直す」ことが必要になる。
 
なんとかして一定の納得を得なければ、それはできない。その解決を、「神が与えたもう運命」だと考えるのは、究極の回答となるが、それは根柢に「信仰」がなければできることではない。
 
著者は、この「信仰」によって問題を解決することからは、身を引いている。論ずるにあたり、それでよいだろうと思う。そこで、その「運命」について、著者はこのようなことを言う。運命とは、「後から振り返った時に、自分の人生に絶対に必要であったという固い確信が得られる出会い」の事である、と。それはもう少し具体的に言えば、大切なことは、「自己と他者が出会い、その出会いから、それぞれが自らの物語をどう立ち上げていくのか」ということなのである。そこに生じるものが、「時間」にほかならない。その「時間」には、十分な「厚み」が伴うであろう。物理的にもし短い時間であったとしても、その人生は、十分に「長い」ものであった、と言えるはずである……。
 
この本は、信仰を説くものではない。「医療人類学」という、私が聞いたことのなかった学問分野のフィールドで語られた、人生論のようなものが語られたと思う。だが、キリスト教会では、その説教壇から、まさに神の言葉が実現する出来事が生まれるのであり、礼拝においてキリスト者は、神の業を目撃することになる。キリスト者は、かつて運命的に神との出会いを果たした魂を必ずもつが、その後も礼拝説教において、主日ごとに新たな神との出会いを経験しているのである。
 
聞き慣れた詩編23編からでも、様々な異なる神の出来事を知ることができる。それが説教の強みである。語る者が自ら聖書の言葉の内部に立ち、だからこそまた聖書の言葉が語る者の内部から流れ出て、耳のある者にたっぷりと注がれて、神の命を受けるのである。
 
「主は私の羊飼い」と始まる詩編23編。ここは原語ではただの2語だけというシンプルな音の中で済ませられる。ヤハウェ・わが羊飼い。あるいは、この語は、たんなる「牧草地」を示す場合もあり、草を食べさせる様子を表すことにもなる。
 
つまりここで、私は羊という立場に身を置いていて、命の糧なる牧草を与えるものとして、主を心得ているということになる。作者はダビデとされているが、少年ダビデは羊飼いであった。自分が羊の生命を支える立場であった日常から、いつしか自分もこのように主により食べ物を与えられ、命支えられていることを深く思うようになっていったのかもしれない。
 
主こそが羊飼い。導いてくれるという確信がある。災いが及ぶという不安がないわけではないが、それは恐れる対象ではない。敵を追い散らし、元気をくださる。これはもう、「信頼」そのものの姿である。この詩からは、「信頼」の波が打ち寄せてくるし、それは絶えることがない。
 
「羊飼い」という語は訳されていく中で、後に「牧師」を表すようにもなっていく。ただ自らが正義であると思い込んだ組織の看板となり、聖書の説明をして政治を批判しているばかりで成り立っているような肩書きではない。どこに目を向けているか、誰に心を注いでいるか、それは、言葉の端々から、なにげない身のこなしから、現れてくる。世の光は隠せないし、地の塩は効き目がきっと現れる。聞く耳をもった者には、それらはちゃんと伝わっていく。というよりも、命与える説教のある教会では、会衆は必然的に聞く耳をもつようになるし、中身のない空疎なお飾りの聖書講演会にしか出席しない会衆は、命を知る機会が奪われてしまい、本物を知ることがそもそもない、と言えるのだ。
 
教会に行く前に私は、この羊飼いと出会うとなると、自分の人生を妨害されるような怖さが確かにあった。聖書の中で確かに出会いは果たしていた。が、キリスト者としての生活を始めるということには、勇気が必要だった。しかし、一歩踏み出して、人生を委ねたときに、確かにその「出会い」が完成したのだ、とも言える。それは、「自分の人生に絶対に必要であった」のであり、そこから「物語」が始まったのである。その「物語」は、聖書の続編として、いまなおここで綴られ続けている。



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