共につくる

2022年9月17日

息子がジャズのギターを学んでいる。大きなバンドでは、そう目立つばかりであってはならない。いや、小さなバンドでもそれはそうだろう。リズムを刻む重要な役割がある。しかし、ソロあるいはソロ・フィーチャーというような演奏の時間も与えられることがある。そこでは主役である。聴衆を魅了することが求められることになる。
 
そのソロだが、中にはきっちりフレーズも決めて、決めた通りに演奏する、というタイプの人もいる。それはそれでよい。なんでも自由に気ままにやるとなると、自由そうだが、案外いつも同じようなことばかりしてしまうということにもなるし、自分の弾けるものを出すというものに陥ることがあるそうだ。けれども、その場がどうであろうと、いつも決まったフレーズでよいのかどうか、それもまた疑問がある、という感じ方もあるだろう。まさにアドリブが必要だ、という考え方である。だから、ある程度決めておくこと、しかし決めた通りで終わらないで自由さを出すこと、それでもなお何かしらの基準を考えて置くこと、これらのバランスが大切だ、そんな話を息子と交わした。
 
それはまた、自分のやりたいことだけをやればよい、というのではない、というところにまで目を向ける必要があることにも、気づかされることになった。ライブでの演奏が殆どである。聴衆がいる。聴衆が何を求めているのか。それにより、アドリブにしても、最初はおとなしくしておき、次第に盛り上げる、というパターンがよいかもしれないし、逆に、退屈しかけた聴衆に、いきなり印象深いフレーズをぶつけて関心を惹く、というパターンが相応しいかもしれないことを感じ取る必要があるのである。
 
その意味でも、演奏は、演奏者だけがつくるものではない。聴衆がつくるという面がある。否、演奏者と聴衆とが、共に築き上げるものこそが、よい演奏だと言えるのではないだろうか。それは、プレイヤーとしての息子も、しみじみ思うところであった。
 
私がそういう方向に話をもっていったのは、もうお分かりのことだろう。これは、教会での礼拝説教のことを思い浮かべながら、音楽ライブに適用しただけのことなのである。
 
礼拝説教を、用意した原稿を棒読みして終わり、立派な話ができた、と満足するような説教者はいないとは思うが、もしいたとすると、それは説教でも何でもないということになるだろう。作文披露である。それも、本当に見事な作文ならばいざ知らず、えてして、駄作も駄作、自己満足の作文でしかない場合が多いことだろう。
 
原稿を用意せずに語る説教者もいる。用意した原稿をすべて暗記してから臨む人もいる。プロットだけをメモして、話が続くように準備をしておくタイプの人もいる。どれが良いとか悪いとかいうつもりはない。ただ、聴衆を見ずに話すことは、ありえない。ちらちらと目をやるだけで、見ている振りをしながら、ただの棒読みをする人もいるが、同類である。
 
聴者が何を求めているのか。何について心が前のめりのなるのか。どんな話題で胸を刺されるのか。それは、見ていれば分かる。もちろん、学校での授業もそうである。それ次第で、話すほうも、出方を変え、調子を変え、内容をも変化させる。そうでなく、教師の自己満足のままに一方的に話を続けるような授業があったら、きっと面白くもなんともないであろう。説教も、反応を見ながら、用意したものの一部を省いたり、逆に語ったほうがよいことについては、付け加えたりもする。そうやって、聴衆が語る者に影響を与える。否、共に、説教をつくり出していく。
 
様々な場面に、神の知恵がはたらく。人の心が通う場に、神が橋渡しをする。する側だけが、それをしているのではない。される側も、共につくりあげていく。よく、ボランティア活動は、活動する側が励まされる、ということを聞く。その通りだと思う。子どもを教える者が、子どもに教えられるという。それも真理だと思うが、さらに、それぞれが共に、伴って、ボランティアを、あるいは授業を、つくり上げていくのだ、という形で捉える方が、適切ではないか、と思う。他者との出会いは、相互に影響を与える。当たり前のことに、私たちは立つだけなのである。



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