個性について

2022年9月7日

いわゆる「キラキラネーム」。誰がこのきらびやかな名称を考えたのかは知らないが、実際子どもを対象にした職務に就いていると、現代は、もはやよみがなが記載された欄がなければ、子どもの名を呼ぶことさえままならぬ社会となっていることを痛感する。
 
果たして、人に読めない文字が、名の役割を果たすのであろうか。古来、名を呼ぶことはその存在の本質を知るということと考えられていた。名を明かさないことで、秘密の力を宿すという構図が、そこかしこにあった。まさか、読めない名前をつけることで、その子が秘密の力を隠し持つように策略したのではあるまい。
 
他人と違う個性がほしい。自分が自分である故の証しがほしい。親が、そのような錯覚に陥って、あまりに奇抜な、唯一の読み方をする個性を子どもにもたせようとしたのだとしたら、願望を子に託すような、無責任な振る舞いだという批判を、免れないのではないだろうか。
 
お洒落な読み方の名前をつけることで、それを明かした友だちと、特別な仲間をつくることができる、と考えたのかもしれない。有名人になつて世間に知られたときに、ステキだと褒められることを夢見たのかもしれない。
 
いや、口が過ぎた。もちろん親の愛情の現れであることは確実だ。個性豊かな子であってほしいという願いがこめられているもの、と解釈しておくのが、無難であることだろう。
 
だが子どものほうでそれをどう思うか、それもまた様々であろう。「希星」と書いて「きてぃ」ちゃんなどと呼ばれる子も、いつか顔に皺を刻み込んでゆくのだ。
 
個性とは何だろう。とにかく他人と違うことが、個性なのだろうか。それだけが個性なのだろうか。平凡な中で、しかし見えないところで、唯一の存在であるという確かさの中に、個性なるものがある、という確信が、なかなかもてない世情を覚える。
 
キリスト者は、どこか頑固である場合がある。それが本人の決定的な勘違いである場合もあるが、キリストという岩の上に立つ者は、揺るがぬ姿勢をもっている、という意味である。他人とはきっと違うぞ、唯一なんだぞ、という空威張りからそのようにするのではない。表向き、分からないところ、見えないところで、他人とは違うユニークさをもつのである。そういう当たり前のところに確かに立っているが故に、動かぬ頑固さをもっているということがあるのである。この個性は、まことに揺るがないものである。
 
ありふれた営みの中で、真摯に事にあたるキリスト者がある。キリスト教会からなんの注目を受けることもなく、世の中の柱となり、消耗されながらも、りんごの木を植え続けている人がいる。うわべだけの笑顔や、ただ平和の言葉や社会批判を常套句として語る口とは無縁な、休みなき忍耐の日々を生きている。この頑固さは、偽りの美しさとは違い、ぶどう酒よりも快く、どんな香り草よりもかぐわしいはずである。神の目からは、きっと、かけがえのないものとして、大切にされていることだろう。あなたは、一人という意味での「個」としてすでにそこにあるのだから、神はプライベートな形で、あなたと結びつきを求めている。聖書は、それを知らせてくれるし、確信させてくれる。



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