信仰とは何か

2022年9月5日

いったい時間とは何か。誰も私に尋ねないとき、私は分かっているつもりである。だが、尋ねられていざ説明しようと思うと、自分が全く分かっていないことに気づく。正確ではないが、アウグスティヌスは「時間」について、このような契機から、その論を始めている。
 
いったい信仰とは何か。キリスト教や聖書の中心のことのようであり、誰もが熟知しているような顔をしてそこにあるが、さてそれは何か、と問うと答えることがまずできない。
 
それは「信じ仰ぐ」と漢語で表す。だが、原語の感覚は恐らく、「信」に近いのではないか。「信頼する」という意味でよい場合も多々あるようだ。旧来「イエス・キリストを信じる信仰」のように訳したり受け止めていたりした新約聖書の句が、近年の研究や解釈を踏まえて、日本の新しい訳である聖書協会共同訳では、「イエス・キリストの真実」と訳出した。これにより、従来の説教は一変する可能性があると言えよう。これはパイロット版では「イエス・キリストの信実」としていたという話を聞く。私は田川健三訳で「イエス・キリストの信」と訳したその理由を読んで、これはなるほど、と思ったのが、このことを考えるきっかけとなった。「の(属格)」の曖昧さも曲者だ、とも思った。
 
師クラドックに出会って説教の道に進んだというバーバラ・ブラウン・テイラーが、信仰について、魅力的な発言をしていることを聞いた。「信仰とは、リスクをよく考え、それでも自分から決断すること。」また、「信仰とは、基本的に言えば、相手から裏切られたとしても、自分がそれを引き受けること。」きっと、私が心に描いていた景色と、それは近いと思えた。それは、「信仰」を「信頼」と言い換えてみれば、多くの人にも伝わるだろう。
 
信頼するには、リスクが伴う。だが、どういう説明を受け、誘われたとしても、結局決断するのは自分だという意識がなければ、少なくとも「信頼した」という表現をとることはできないだろう。また、リスクが不幸にも現実のものになったという場合を考えてみる。それは相手が悪いのだ、信頼するべきではなかった、などとぼやくのであったら、それは「信頼した」ことにはなるまい。一旦信頼した以上、結果云々もまた、自分の中での問題であり、出来事であるという受け止め方、あるいは覚悟というものをしているのでなければ、「信頼した」とはとても言えないだろう、と思うのだ。
 
私は事実、そのように捉えてきた。だから、教会でのずいぶんな事件について、誰それが悪いとしか思えないような場合でも、その人物を見抜けず信頼していた自分の愚かさを恥じることからしか、言動を始めることができなかった。
 
このように「信頼」と言い換えてしまうと、人間相手の問題にしかなりそうにない。それもまたリスクであるかもしれない。それでも、神に対する信頼、私たちはそこに目を向けたい。俄然、スケールが異なってくる。いったいそこに、何のリスクがあるのか、と言いたくなるほどに、信頼の度合いも増すではないか。それでも、もし神の側から自分を見ると、何の信頼も寄せておらず、愚かな奴だ、としか評定されないだろう、という覚悟をしながら、十字架を見上げるばかりである。
 
神は雌牛や雌山羊と雄羊を二つに切り裂き、当時の契約の形をアブラハムに調えさせたのだという(創世記15:9-11)。神の側から、この契約を破るならば、このように二つに切り裂かれてもよい、というリスクを背負う決意を示したのだ、という説き明かしを聞くと、ぞくぞくする。神の覚悟というものが、現実に、御子イエス・キリストが惨殺されるという形で、現実にもたらされたことの告知が、私を打ちのめさないはずがないからである。いまとなってはもうすでに、神はこの上ない痛みを伴って、私たちに限りない信頼を、信たるものが存在することを、これでもか、と懐に押し入れているのである。
 
バーバラはまた、聖書の物語を真実を以て聞くということは、その物語の中へ足を踏み入れることにほかならない、というような意味のことを告げている、ともいう。いったい、「物語」の中に入ることなくして、「真実」というものがあるのだろうか。イエス・キリストの出来事が、真実であるものとして信を置くのでなければ、どうして私たちは教会に集まることがありうるのだろうか。それを語り告げて、そこから命を注ぐのでなければ、どうして教会に「説教」というものが成り立つのだろうか。
 
さらに私は思う。「信仰」あるいは「信頼」という言葉の中に、リスクを引き受けることがすでに含まれているのだとすれば、そこにこそ「責任」が成り立つものである、と。また、そのときにこそ、私たちには「自由」があると言えるのだ、とも。もちろん、「責任」という語が西洋の語において、「応答できること」において成り立っていることを、踏まえての連想である。神の投げかけたものに対して、人は、応答することで、神との関係をもつことができるはずなのである。



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