【メッセージ】喜べないときにも

2022年9月4日

(フィリピ4:1-9. ハバクク3:18)

それでも、私は主にあって喜び
わが救いの神に喜び躍る。(ハバクク3:18)
 
◆喜べ
 
4:主にあっていつも喜びなさい。
 
たしかにそうですね、そう喜べる人は幸いです。私たちの多くは、素直に喜べないから、悩むのです。そして、喜べないとき、自分は聖書の言葉に値しない、と思い始めます。それは、それまで感じなかった悩みをも生み出すということです。聖書からの奨めが、よけいに罪悪感や辛い気持ちをもたらすということもあるわけです。
 
そんな人も、素直に喜んでいた頃があったのだと思います。イエス・キリストに出会い、救われたという喜びに満たされていた時。教会に迎えられ、どんな説教の言葉も、自分の血となり肉となっていたような時期。それが、同じような礼拝説教の繰り返しと、教会生活の中で出会う「まさか」のような出来事を重ねるにつれ、教会に行くのがしんどい、と思うようにもなりました。
 
しかも、そのように感じることが、まさに不信仰です、などとも叩かれるようになると、精神的にダメージを受け、それが肉体にも現れてくるようになります。他方、大丈夫だよ、としきりに呼びかけるような人も現れることがありますが、打開策なしのそうした根拠のない励ましは、精神医学的にも禁物です。だのに教会では、普通にありがちなことです。
 
そもそも、「喜ぶ」ことについて、「喜べ」と命令形は、可能なのでしょうか。人の感情や感じ方を命令される筋合いは、あるのでしょうか。形容詞や形容動詞には命令形がありません。「喜ぶ」は動詞ですから、文法上は命令形があります。けれども、「悲しめ」だの「怒れ」だの、命令されてそれに従うとなると、なんだか演劇の場面を見ているかのようにすら思われてきます。
 
但し、自分が自分に対して「喜べ」と呼びかけることは、あってもよいかもしれません。詩編では、「わが魂よ」と自らに呼びかけて、「主を賛美せよ」と励ましますし、「正しき人よ」と呼びかけて、「主によって喜べ」(詩編32:11,97:12)のようにも言っています。
 
この箇所を読むとき、いつも心に浮かぶのは、「愛少女ポリアンナ物語」です。1986年に放映されたアニメ番組です。原作は『少女バレアナ』(バレアナと表記したのは訳者の村岡花子)として知られています。母を亡くし、牧師の父も喪った少女バレアナは、引き取られた伯母のもとで孤独な中にも、父が教えてくれた「よかった探し」を続けます。これはアニメでの表現ですが、原作翻訳では「喜びのゲーム」でした。どんな事態にも、きっと喜べることに気づけるのだ、と考えることです。
 
これだったら、「喜べ」と命じられる前に、自分から喜びを探すことが、できるかもしれませんね。但し、これが現実逃避のようになると、「ポリアンナ症候群」という、心的症状として扱われることがありますので、どうかほどほどに。
 
◆医療従事者のために
 
さて、視点を、現在の医療従事者に向けます。新型コロナウイルスにより規制される世の中が、よほど面白くないのでしょうかね医療従事者に対して、冷たい罵声を浴びせる人が絶えません。医療が崩壊していると医者たちが言うと、政府が悪い、病院が悪い、と馬鹿にすらします。
 
医療従事者は2年半以上も、ひたすら堪えてきました。しかしその報いはいま、医療崩壊という現場に取り残されるようになってきています。「行動制限をかけない」ことを、いいように理解した人々は、この崩壊の怖さを知らないのです。
 
当初は、医療従事者に感謝しましょう、といったキャンペーンじみたものもありました。海外から起こったそれを、日本人も真似しました。けれども、絶対的な神への感謝を知らない文化では、ほんの一時の流行で終わりました。
 
教会でも、医療従事者のために祈りましょう、と声を挙げたところも、初めは見られました。他方、そんな祈りなど全く週報にも祈りの課題にも載せない教会もありました。私がそうした姿勢に抵抗して発言していたのを、見聞きしたのかどうか知りませんが、ようやく最近、祈りの課題に「医療従事者のために」という文字を載せるようになったところもあります。が、祈ってなどおらず、毎週ただコピペでそこに載せているだけなのだ、とよく分かりした。その課題の一番上に、「コロナと付き合っていきましょう」などと書いてあるのを見たのです。がっかりしました。コロナとつきあうということは、医療従事者は永遠にこのまま働き続けろ、と言っているのと同じだからです。
 
想像力の欠片もない、冷たい「医療従事者のために」という言葉でした。事実、そこでの説教者の祈りには、医療従事者のためにという言葉すら、登場したことがないように思います。
 
◆愛ある対応とその逆
 
何もコロナ禍である必要はありません。医療従事者が、やっとのことで教会の礼拝に出ることがあります。尤も、感染の現場に常にいるような人は、リモートという形でしか参加しないこともありますが、そもそもコロナ禍以前から、医療従事者のキリスト者も少なからずいるわけです。
 
その若い医療従事者は、まだなりたてで、仕事を覚えるだけでも一苦労でした。毎日へとへとで、夜勤交代もこなしますが、まだ要領を得ません。でも、礼拝に行けるならば行きたい。そして礼拝説教が始まる。すると、疲れた体は、もう堪えられなくなります。
 
お分かりでしょうか。「舟を漕ぐ」という表現が。体が前後に揺れるのです。そう、意識は完全に眠ってしまっているのです。
 
民家を改造して、二部屋をつないだ会堂で舟を漕ぐと、実に目立ちます。牧師は、構わず語り続けました。皮肉のひとつも言って差し支えないような情況でしたが、そんなことは微塵も思わず、ここに来ていることだけで神は喜んでおられるのだから、と見逃していました。自分の説教をどうしても聞け、というような姿勢は、どこにもありませんでした。
 
これはたいへん愛ある対応だったと思います。
 
信仰のために、聖書を読みましょう、そんなアナウンスも、教会では当然あるべきだろうと思います。けれども、疲れ果てている人に対して、時間のある人と同じようにノルマを課すようなことを、公平だとは考えない教会でした。聖書を読まねばなりません、などとプレッシャをかけるようなことも、ありませんでした。
 
パウロは、「喜べ」と、このフィリピの信徒への手紙で畳みかけました。表向きは、それは命令形です。けれども、それは私たちの思うような命令口調ではなかったのではないか、と私は思います。確かにパウロは、自分の命が間もなく消えようとしているように自覚し、その覚悟の中で、この手紙を書いていた、と言われています。パウロ自身も辛いのです。でも、絞り出すように語られた、その「喜べ」という言葉は、冷たい命令ではなかったはずだ、と私は思います。もしかするとパウロ自身に対しての、かもしれないし、やはりフィリピ教会の信徒に対しての、とすべきかもしれませんが、愛ある適切な励ましだったのだろう、と感じながら読んでいきたいと願います。
 
しかし、言葉として「喜べ」と言われても、喜べない状態でいる人も、います。個人の状態によっては、いまは喜べないんだが、と抵抗したくなる場合が、あります。ただ、私たちは、その都度ではなく、常に喜べるような環境にないような人がいることを、忘れがちであるかもしれません。
 
母の日に、お母さんに感謝の手紙を書きましょう、と子どもたちに呼びかけても、母親のいない子どもにとっては残酷であるかもしれません。もともと亡き母に向けての心から始まった母の日が、いつしか存命の母親への感謝の日に染まってしまったのは、私たちの思い込みによるのかもしれません。もちろん、母親から虐待を受けている子もいるということへの配慮も、欠落しているのが普通でありましょうが。
 
貧しい人々のために献金しましょう、と教会で募金箱が設置されることがあります。結構なことです。しかし、それを見ながら、その中のお金があったら今晩パンが食べられるのに、と思うような人が、現に教会にいたとしたら、どうでしょうか。いやいや、そんな悪い心を起こしてはならない、などと無用な葛藤を起こさせてしまうとしたら。教会というその場には、貧しい人はいないと決めつけているのでしょうか。
 
かつては富裕層や教養豊かな人々が教会に集まっていたといいます。その教会のイメージが、いまなおそのまま裕福な人々のサロンになっている場合があるとすると、もはや隣り人に対する関心をもたなくなっていても、当然かもしれません。
 
精神的に追い詰められているような人も、教会にはわりと集まりがちです。その中で一般的な正義論を振りかざして、心に弱さのある人や、辛い過去をもつ人の心に、ぐいぐいと刃を差し入れているような場面を、実際に見たこともあります。自分はどんなに恵まれていて楽しいか知れませんが、隣りにどんな人が座っているかということになど、全く関心がないのだ、と残念に思います。
 
私たちは、愛のない対応を、無意識の中で、やってしまうのです。
 
◆喜びの背景にあるもの
 
「喜べないときにも」という題を付けました。これを聞いて、予想した人がいたかもしれません。「喜べないときにも、キリストが共にいます。従っていきましょう」ということが言いたいのだろうか、と。確かに、ありがちです。それはひとつのお約束であり、縛りであるかもしれません。喜べという言葉が、現に聖書の言葉としてあるのだから、それに従うのが信仰なのだ、という思考法が、慣れたクリスチャンには、常道となっているのです。クリスチャンの「律法」として。
 
「喜ぶ」とは、どういうことをいうのでしょうか。お金が手に入ると、喜びますね。何らかの社会的地位が与えられたら、喜ぶでしょう。賞などのプライズもそうですね。健康でいることを喜ぶのは、ふだん感じませんが、これを喜べるのは、精神的にもよろしいことなのかもしれません。平和な家庭も、改めてそれを喜ぶというのは、なかなかないことでしょうが、世の中の不幸を見たときに、喜び、感謝するというのはありそうです。人間関係に悩む人が多いことを知ると、いい人に恵まれていることを喜ぶ、という経験もおありかもしれません。
 
これらは、概ね「幸福」という言葉で括ることができるように思えます。喜ぶとは、幸福を背景にしている、ということなのでしょうか。
 
しかし聖書はしばしば、この世の喜びを否定します。世の楽しみを興じているのはけしからん、とし、神が共にいることを喜びましょう、などというメッセージもありそうです。それは、現実生活が不幸なように見える人を救う場合があるかもしれません。が、こうした点を強調してくるグループもあります。終末を煽り、選択の余地のない場に信徒を追い詰めるのです。いわゆるカルト宗教と呼ばれるグループの考え方にも似ていますが、必ずしもそうとばかりは限りません。人間の陥りやすい、マインドコントロールの手法であるだろうと思います。
 
ところがそういうことは、パウロなどが率先してやっていた、とも言えます。テサロニケの信徒の手紙におけるパウロの切羽詰まったような息づかいは、やはり一種のマインドコントロールの路線であるだろうと思います。無理もありません。当時の状況が、確かにそうだったのです。生か死かという極限状況に近いものが普通であった社会の時代です。いまの私たちと温度差はあるだろうと思います。けれども、私たちもまた、いつどのようにそうした立場に置かれるか、それは分かりません。現に、このコロナ禍において、決して楽観できない社会になっているのもありますし、政治的緊張も確かにあるわけです。
 
7:そうすれば、あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。……
9:私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたと共におられます。
 
それでもなお、パウロはここに「平和」を見ようとしている点を、私たちは見落としてはならないだろうと思います。それは「平安」とも訳せる言葉です。「平安」と訳すと、心の状態のようになります。このようなパウロの言葉に対して、私たちは心を寄せることができるでしょうか。つまり、聖書を信頼することが、できるでしょうか。つまるところ、そのような信頼があるときに限り、私たちは、喜べと言われて喜べるような気がします。喜びは、信頼の内にこそ、起きる心理であるように思われるのです。
 
◆主は近い
 
4:主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
5:あなたがたの寛容な心をすべての人に知らせなさい。主は近いのです。
 
「喜べ」というのは、単純な命令だとは言えませんでした。しかし、そこに信頼関係が築かれているときには、喜べるようになるのではないか、と思われました。そうすると、パウロのいろいろな指示が、素直に聞けるようになることでしょう。
 
ただ、「主は近い」という言葉が、やや唐突に挟まり、しかしパウロの言いたいことの背景に、しっかりと根づいているらしい、と、私は気づかされるような気がしました。この言葉に、当時の追い詰められたような社会の中で、どれほどのキリスト者が、力づけられただろうか、と想像してみたのです。「主は近い」という言葉を心に結わえ付ければ、様々なことに忍耐することができたかもしれない、と空想したのです。今はこんなにも悲惨だが、主は近いのだ、そう思えば、歯を食いしばって、「いま」を堪えていけたかもしれません。それは、いまよく報道されているところからいえば、ウクライナで逃げ惑う人々の思いに、どこかつながるかもしれません。涙に暮れていても、「主は近い」と心に繰り返したら、「いま」を駆け抜ける力には、なるかもしれません。
 
私たちはどうでしょう。多くの人々による無数の努力により守られて、日々安心して過ごせるのは、なんと幸せなことでしょう。電車で居眠りができるなど、信頼と平和の賜物ではないでしょうか。この安全な生活の中で、私たちはなんとのほほんと過ごしていることでしょう。なんと不自由のない生活が与えられていることか。何気ない日常が与えられていることが、なんと感謝すべきことか、と気づかされるならまだよいのですが、毎日同じことの繰り返しで、退屈で死にそうだ、などと口にする者もいます。
 
こんな長閑な生活の中で、「主は近い」という言葉を、私たちはその本来の意味で受け止めることができるのでしょうか。「主は近い」などと言われたら、「待ってくれ」と言いたくなるような気もします。それとも、本当はそんなことを願ってなどいないくせに、形だけ、信仰者であるように振舞うために、「主は近い」と合唱するのでしょうか。いったい、私たちにとり「喜び」とは何のことであるのか、私たちは見失っているのかもしれません。
 
◆協力者
 
もうひとつ、この「喜べ」の、今度は直前にあるところに目を留めてみます。
 
2:私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主にあって同じ思いを抱きなさい。
3:なお、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために私と共に戦ってくれたのです。
 
エボディアとシンティケは、女性のようです。二人は、仲違いでもしていたのでしょうか。同じ思いを抱くように、と命じ、周囲の人々にも、二人を助けるように、と頼んでいます。この役割を担ってくれるであろうと信じている、教会のメンバーの誰かが、パウロにとり「真の協力者」と単数形で呼ばれていることになります。それは、個人的に「あなただ」と迫っているように見えます。また、福音のために共に戦った人々も「他の協力者たち」と呼んでいます。パウロにとり必要なのは、「協力者」であることは間違いありません。
 
教会の中に、せっかく福音のために戦う同志がいる。パウロの「協力者」です。その「協力者」たちを同じ思いでいさせてくれるために努める者もまた、「真の協力者」である、と言うのです。しかも、それを「あなた」と迫っているのですから、すなわち私たち一人ひとりが、「協力者」であるように、と問われていると言えるでしょう。
 
そして、これに続いて、今日の問題の言葉が続きます。
 
4:主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
 
あなたは協力者になってくれるのか。だったら、喜びなさい。このように読めます。このように読まなければならないのだと思います。福音のために共に戦う協力者の祈りの先にこそ、喜びがあり、神の平和の守りがある。パウロは、そう言っているに違いありません。
 
この協力者としては、「クレメンス」の名も挙がっていますが、他にもいるわけです。このクレメンスは「命の書に名を記されている」とわざわざ形容されています。パウロがそれを決めることは、やや越権のようにも思われますが、パウロはそう堅く信じて止まないのです。
 
◆喜びなさい
 
こうして喜びの先にもたらされる「神の平和」は、人がつくるものではありません。凡ゆる人智を超えています。だから、信仰によること以外に、「神は云々です」と決めてかからないようにしましょう。当然ですが、自分の感情や偏った信念を根拠にして、「神はこうであるはずだ」などと、無責任に言わないようにしましょう。それは、SNSで飛び交うデマと同質であると共に、永遠の命に関わる事柄について、デマを飛ばすことになりますから、決して軽い行いではありません。
 
こうした背景、こうした土台の上にこそ、「喜びなさい」のフレーズが現れていたことを、確認しました。それは、世間的に「幸福」と呼ばれているものではありませんでした。むしろ、聖書と神に対する、深い信頼の上にこそ、「喜べ」の言葉が投げかけられていたのでした。何の背景もなく、信頼もなく、ただ「喜べ」と命令されていたわけではないのです。
 
8:なお、きょうだいたち、すべて真実なこと、すべて尊いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判のよいことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
 
これらが、神の真実を知らせるものだ、と思ったからこそ、パウロは並べているのでしょう。パウロが、命の瀬戸際から、どうしても言い残しておきたいこと、それを精一杯伝えようとして、こうした非常に抽象的なことでまとめておくしかできなかったように、私には思われてなりません。
 
そして私も、言葉足らずで稚拙ではありますが、このパウロの思いに重なるような思いを、かねてから育んでいました。パウロほどの力も才能もありませんが、その心の影にくらいは、触れていられるのではないか、と思っています。自分では「喜べない」と思ったときにも、私たちには「喜ぶ」ことのできるものを、見つけることが許されています。「それでも」と言葉を挟みつつ、「喜びのゲーム」に参加したいと願っています。また、そこにあなたをお誘いしたいとと、切に思っております。



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