政治的なことを説教で語ることを問う

2022年9月1日

礼拝説教で、政治的意見を語るのは是か非か。時折誰かが話題にする問題がある。「政治的なこと」とは何か、それが何を指しているのか、ということを曖昧にして議論しても仕方がない。また、この問いそのものが妥当かどうか、それも検討する必要があるような気がする。
 
政治に関わることに、全く触れてはいけない、とするのも、実際的に難しいかと思われる。純粋に聖書の中の過去の歴史と道徳のようなことだけを語ることだけが、神の望むことであるのか、ということである。説教においては、釈義と解釈、それから適用という段階が含まれていることが通例であろう。これらの説明にもいろいろな考え方があるだろうが、ここではいま、聖書世界で語られた意味、私たちがいまここで読む意義、私たちがこれからどう生きていくかの決意、こうしたものとして、捉えてみることにする。
 
特にこの、適用する中では、私たちの実生活が関わってくることになる。この世の中で、私たちはどう生きるか。それを「政治的なもの」や「と全く無縁なものとして定めることは、実際的には不可能であるとしなければならないだろう。
 
従って、説教と政治的意見ということでよく問題とされるのは、牧師が説教において、特定の政党を支持するとか、政治で議論されていることについて、一方の主張を正しいとし、他方を間違いだと決めた言い方をするとか、そういうことではないかと思われる。それが「政治的なこと」と称されているように見える場合がある。
 
それは好ましくない、という考え方がある。ある牧師は、言っていた。信徒の中にも、支持政党が様々異なることもあるし、政治的意見も、その立場にも関係するなどして、いろいろなものがあるだろうから、キリスト教はこの意見を採らなければならない、とするのはよくない、と。尤もな見解である。
 
だが、世の中で苦しんでいる人がいるのに、その人を助けようともしないで、教会が雲の上で清い教えを垂れるような存在であるというのは、イエスの教えとは違う、と考える人々もいる。教会は社会の中にあるのだ。そして不当に苦しめられている人の側に立って、イエスが弱者を助けたように、力になることを考え、実行していくべきだ、というのである。これも尤もな見解である。
 
だからこれは、微妙な問題なのである。公民権運動のときの、キング牧師の説教は、激しく政治的なことを叫んでおり、とても聖書を語ろうとしているようには聞こえない場合がある。恰も、政治的主張をするために、聖書を利用しているかのようでもある。歴史はその後、この運動を是としており、教会の説教云々がどうだという観点から取り上げることはないように見える。
 
私もかつて、それはとても礼拝説教には思えない、というふうに考えていた。それでよいのであれば、政治的なことを説教で語ることは適切であると理解すべきである。確かに、いま政治的なことを礼拝説教で吠えるのを聞くと、不快に感じることが多々ある。けれども、不当に政治的理由で権利を奪われている人のために傍観することについては、それでよいのか、と自問もする。何も言わないことは、悪を認めることになりはしないか、と。これは私の中で、矛盾しており、分裂しているということなのだろうか。
 
何がこの差を生むのか。いろいろ考えていたが、ひとつ気づいたことがある。概ねそれは理性的に捉えて一般的に「悪」だと考えられることに対抗する「政治的なこと」と、世論が二分されるように対立した意見が飛び交う「政治的なこと」とでは、意味合いが違うということだ。もちろん前者は、自分こそ正しい、という主張をしているのではない。何かしら理念からして、普遍的な原理が正しいのであって、現状はそれに反している、という言い方ができるものである。後者は、理念上どちらが正しいというものではなく、ただ相手と自分との意見が異なって対立しているという場合である。但しこのとき、主張していることは、相手が正しくなく、自分が正しい、という主張になる。
 
もちろん前者の場合でも、その理念に反する側が全面悪である、と決めつけることができるかどうかは分からない。理念に反してでも貫こうとする側にも、何らかの事情があることを配慮するのが通例である。だが、後者においては、どちらの側にもそれなりの意見の根拠があり、どちらかだけが普遍的に正しいということは、かなり一般的に決められにくいという背景があるにも関わらず、自分のとる立場だけが完全に正しく、相手の言い分がすべて間違っている、というふうに思い込んだ中から、対立が起こっている。
 
どちらも「政治的なこと」である。多分に、私が説教の中で触れて然るべきだと考えていたのは、社会や歴史が理念的にそちらに向かうほうがよいと思われたり、善の理想はきっとそちらの方面であると考えられたりする前者の方だったように思う。それに対して、ただ現政権がけしからん、その政策が気に入らない、というような態度で、自分たちの立場のほうが正しいのだ、と主張するような景色が見えるものに対しては、私はきっと不快を覚えていたのだ。
 
基本的に、「神が正しい」ということそのものについて、私は抵抗はしない。だが「私が正しい」という原理に基づいているものについては、私は信頼を寄せない。これこそは、聖書からではなく、聖書を利用するタイプの説教となっている構造が指摘されるものであろう。
 
礼拝は、私たち人間を主語にするならば、「神を」礼拝するものとして規定される。神ならぬものを礼拝することは、少なくとも聖書とは関係のない世界の話である。礼拝説教は、語られる言葉を通して、神を礼拝するものであるはずであるし、そのとき語られる言葉は、神の言葉であるはずである。それが神の言葉であるならば、現実存在となるに違いない。それは、イエスのように、口から出した言葉が現実に起こったり現れたりする、という意味には限らない。聞く者の魂の中で、いのちの言葉が生き生きと働き、その人を生かすのであれば、確かに神の言葉は現実存在となった、というように私は理解する。それが私の信仰である。
 
礼拝説教が「政治的なこと」を扱うべきか否か、という問い方はよくない。何を正しいとしているのか、その根柢をこそ問うことが必要であると考える。「私は正しい」を語るような説教は、聞くに値しない。否、聞くことは危険である。もちろん、そのレベルにすら達しない「説教モドキ」については、当然誰もが問題外だとすべきであろう。これも、現実にはそうはならないのだが。



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