言葉の通じない相手

2022年8月30日

事細かに描写はしないことにするが、電車や駅で、ひどく不愉快に感じる事態に出会うことがある。小さな不愉快は日常茶飯事だが、これほどは、というものだ。若い人だと、絡んでくることはまずないが、年配の人のほうが、より鈍感で、厚かましいことがある。口で言ってくるからだ。
 
いや、それはおかしいですよ。私も、昔ならば言ったかもしれない。だが現実には、逆ギレされたという報道が頭を過り、口論はしないほうがいい、という結論に至る。また、教室で教師の立場にいると、よくないことは指摘するという、教育的立場をとるのが業務になるだろうが、世の中の不特定の人を教育するような傲慢さは、持ち合わせていない。
 
それにもまして、そうした場で議論のようなことをしない理由は、「言葉の通じない人とは、議論ができない」からである。説得しようとか、分かってもらおうとか、そう思う気持ちは、すっぱり捨てることにしているのだ。確かに表向き、日本語で話をすることになる。相手もその言語そのものは理解してくれる。それなりに自分の言い分が適当である根拠はもっていると思うし、そうした論理もあると考えている。けれども、何を言っても通じないということが事実あるわけだ。
 
そもそも、私が「まさか」と信じられないような行動をとっている人は、私の考える行動基準とは、完全に異質のものをもっているに違いない。自分の正しさを主張する、なんらかの理由ももっていることだろう。もちろん、私が正しいと考えることが正しい、という保証もどこにもないわけであって、私だけが間違っている可能性も、もちろん想定する。もしかするとどっちもどっちなのかもしれない。どちらが善い悪いではないのだ。話し合って、どちらもが「なるほど」などと思い、それぞれに納得するようなことが、殆ど期待できない情況がある、ということだ。つまりは、言語としては意味が通じたとしても、論理がつながる場所がないケースである。これを「言葉が通じない」と先ほど表現したのである。
 
恋人をフるとき、自分の真意を分かってもらおう、などという魂胆が、相手から見破られることがある。理解はしているんだよ、と自己弁護をする心理が丸見えだというのである。これも、言葉が通じていない。というより、言葉の背後にあるさもしい心が、疎ましくさえあるだろう。恋愛の修羅場では、相手を説得しようとしたり、自分を理解してもらおうとしたりしても、無駄であることは、経験済みの方も多いだろう。
 
言葉が通じない状態で、言葉で説明したとしても、それはやはり通じないのであって、躍起になっても、無駄であり、空しい。
 
信仰の言葉もまた、そうである。信仰の経験がないところに、信仰の経験をいくら語っても、分からないものは分からない。私も、説得しようなどとは思わない。ただこの場合、たんに言葉が通じない、というのとは少し違う事情がある。若干バランスが異なるのである。経験がない故にそのようなことを語る人の心理は、経験のない時代のあった私は、理解することができる。だが、経験がないその人は、経験のある私の言っていることが、どうにも理解できないのである。そのような構造の中で、「言葉が通じない」という情況が生じていることになる。とくに説教を語る立場にある人は、自分の中にあるものを吐露する機会があるものだから、その語ることに、その人の中身に信仰体験があるかないかは、ちゃんと現れてくる。聞く側も、中身がないならば、自分の甲羅に似せて穴を掘る蟹のように、その語りに中身がない、という事態を知りえない。かくして、教会もまた、その程度のものしか分からない、ただの人間の組織として成り立っている、という場合が起こるのである。それを見抜いていながらにして、放置しておくという優しい人もいるかもしれないが、それは教会を死海のようにしてしまうことになるだろう。
 
言葉の通じない相手とは、議論しても仕方がない、と言った。だから、言葉の通じない者との議論は、避けることが望ましい場合があるのだ、とも述べている。もちろん、話し合わなければ分かり合えないというときもあるし、話し合うべきだ、というのもひとつの正しい対処法である。但し、その「話し合い」が、力関係などで、どちらかの言い分が通ることが既定のものとなっていて、ただの一方的な説得の場になる、ということが前提のように定まっている場合は、それは既に「話し合い」と呼べるものではない。話せば分かる、というのは美しい発想だが、現実には話しても何も通じ合わないことや、危険を呼ぶことすらある。避けられるなら、避けてもよいという知恵は、心得ておいて構わないと思う。もちろん、だから何事でも物言わぬほうがよい、などと言いたいのではないことは、ご理解戴けるだろうと甘えている。
 
他方、言葉の通じない相手と、どうしても議論しなければならない、という立場にある人もいる。しんどいだろう。職務柄、何かしらトラブルが起こったときに、顧客との間で話が噛み合わないと、疲れることだろう。ただ、私の見立てでは、トラブルの有無に拘わらず、その仕事が、常に言葉の通じない相手との関係の中でしか行われない、という立場にある人々がいる。その心労は、逃げられるような立場の私からみると、計り知れないものがあるだろう、と想像する。
 
それは、政治家である。
 
政治家は、常に論敵との議論を職務としている。また、報道機関なども、批判的な立場から臨んでくる場合が多い。マイクを向けられて拒否すれば、その拒否が一定の返答を表すものとして、社会に伝えられていく。何とか応じるというのが、政治家としてなすべきことだとするならば、言葉の通じない相手に向けて、常に言葉を発しなければならないということになる。
 
政治家はしんどいだろうと思う。言葉の通じない相手に、誠実に言葉を投げかけていかなければならない。その政治的手腕のことは問わないとして、とにかくこの言葉への義務という意味において、辛い仕事を負わされているということになるだろう。
 
普通、無闇に人の悪口を言ってはならない、とされている。個人的に誰かを言葉で攻撃すれば、名誉毀損だの誹謗中傷だの、いじめの加害者のようなことをやっているということになるため、社会的には戒められていると言える。だが、政治家を悪く言うということは、社会的にかなり認められていることとなっている。言葉の通じない社会で、批判や非難の集まる視線の中で、それでも発言していかなければならないとは、辛いものだろう。
 
政治家が、自分を支持する人々の集まる講演会やパーティで、時折「問題発言」をするとされる。リップサービスだなどと言い訳をしても、けしからんという遠慮ない攻撃がくる。言葉の通じる相手が目の前にいるという場で、少しばかり心がほっとするのだとすれば、そうしたところで緊張が緩むのは、ある意味で仕方がないのかもしれない。それがよいことだとは思わないが、言葉の通じる相手に対して少しばかり気を緩ませることについて、あまり揚げ足取りのように扱うのもよくないような気がする。せいぜい、その政治家の本音はそういうところにあったのだ、と冷たく評価しておけばよいのではないか、とも思う。
 
そうした発言を熱く批判したところで、結局うやむやになることが多いのだ。マスコミとそこからくる情報で憤る国民も、一応「おきまり」として批判だけしておいて、自分たちの正義感を満足させた後、発言者の立ち回りの中に、いつの間にかその問題が立ち消えになっていくというのが、常態化しているのだとすれば、そもそもの言論そのものが機能していないということになるだろう。ただのガス抜きの繰り返しでは、進展がない。
 
気苦労が多いであろう点では、政治家に同情申し上げたい。論敵がいることが、政治を少しでもよくしていくことの条件であることを、改めて認識させられる。言葉の通じない相手を排除することのできるような立場のリーダーだと、そのうち危険な精神状態になっていくことが懸念される。歴史がそれを証明している。私たちの身近な組織にも、そのような仲良しグループが建てられていくとき、それに警戒心をもつ人がいたほうがよい。もしかすると、その警告に耳を傾けるメンバーがいるかもしれない。それが機能しているならば、その危険な将来からは、守られる可能性が増えていくことが期待できる。そのとき、その組織は「言葉が通じる仲間」となっていると言えるであろうからだ。



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