警告

2022年8月26日

自分もまた、不愉快なことを言ったり、したりしているはずだ。悲しい哉、自分ではそれを、相手が感じるようには認知できないのが常なので、たとえ自ら気づいたにしても、相手が感じることとの温度差は否定できない。世にある加害者と被害者との理解の相違というものが、それを如実に表している。
 
だから、自分が嫌なことをされた、と意識したときにも、した側は悪いことをした、とは思っていないだろう、と考えるのが、ひとつの知恵である。だってこんなにひどいことをしておきながらそれはないだろう、などと思ってみたところで、相手はそれほどには思っていないし、酷い場合には、何の悪いことをしたとも感じていないこともある。そんな目にも、幾度も遭った。
 
このように自分がどれほどのことをしたのか、感じないタイプの人に対しては、ますます怒っても仕方がない。表向き「すまない」などと言ってみたところで、それは自衛の手段であって、へらへら笑いながらそんなふうに言うというのは、結局何も感じていないということなのだろう。この人は、気の毒な人だ。可哀想だ。そう思うことにしてみた。
 
聖書が「赦せ」と言っているのは、そうしたことではないだろうと思う。だから、これはどうしようもない人なのだ、と呆れつつ無視するようなことで、もう関わらないようにするというのは、結果的に赦しているようでありながら、聖書の基準からすると、全く違うものなのだと思う。
 
私に向けて暴言を吐こうと、ハラスメントをしようと、それは私が関わらなければ、とりあえず人間的には何事をも起こさないで、そのまま通り過ぎるだけの出来事となるかもしれない。だが、中にはそれで済まないのではないか、と案ずることがある。このまま相手が無邪気に同じようなことを繰り返すと、被害がほかの人々にも及ぶことが懸念される場合である。
 
この場合、気の毒だという感情はあまり起こらない。ただ、その周囲の人々が、この危険性に気づいていないときにどうするか、そこに思案のしどころがある。たとえば、私の心配が間違っているかもしれない。常にその可能性は、踏まえておくことにしている。自分は絶対に正しい、という思い込みほど、危険なものはないと思うために、警戒すべきだと考えている。
 
しかし、同じ条件は、この場合のターゲットについても言えることになる。つまり、ここでの相手というのが、自分は正しい、という思い込みの中で、自分の支配欲を実行している場合である。それは、精神的な領域でそうだ、という人もいるが、それがいつ暴力的に現れるかが心配である。他方、実践的にそうだ、という人もいるが、これはしばしば、周囲の人がその実態に気づいていないからこそ、危険な道に進んでいるという構造がある。
 
特に、こうした人間に出会った経験がないと、その危険性が全く分からない。自分は詐欺に騙されるなどしない、と豪語する人が一番危ない、というのは、もはや常識である。騙された経験がある人がするであろう警戒心が存在しないからである。
 
旧約聖書の預言者というのは、これに似た世界を見ていたのではないか、と思うことがある。それは、なにも私が預言者気取りで偉そうなことを言おうとしているとか、自分の言うことを、正当化しようとしているとか、そういう背景の故ではない。ただ、自分にできることは、警告を発することくらいであるのだが、それにはある種の理由がある、と自ら捉えておきたいだけのことである。
 
今後、取り返しのつかないことが起こる可能性は、小さくはない。世の中には、そのために大きな声を挙げる人もいる。示威運動をして世に示す人もいる。偉いと思う。尊敬したい。私にはそのような実行力も勇気もない。預言者エレミヤは、幾度も権力者にケンカを売っている。そのため命を狙われることもあった。エレミヤはまた、神に対してもケンカを売るようなこともしているのだから、人に対しては売らないではおれない性格だったのかもしれない。だが、私には無理だ。
 
精一杯の警告は、しなければならない。それが当たらなければ、世の平穏のためだ。だが、それが当たったのであれば、それが心に留った誰かによって、生かされる時がくるかもしれない。それくらいのことしかできない、と諦めはついている。旧約の歴史が証明しているように、古来、こうした警告に耳を貸したという例は、まず見られないのだ。いや、待てよ。ヨナの警告を聞いたニネベの人々の例があったっけ。しかしあれは、寓話のようなものだとも言われる。
 
そうか、これはそういう意味だったのだ。あの時気づいていればよかった。人類は、この溜息の繰り返しを演じてきた。この性質は、ちょっと聖書を読んだくらいでは、克服はできないのだ。聖書を人間臭く解釈するためにではなく、聖書を命のために深く思索するという読み方が、きっと必要なのである。少しでも、傷つき哀しみ、引きずり回されるようなことになる人が、少なくなるように、と願うばかりである。



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