聖書の語の捉え方についての一案

2022年8月16日

聖書の中で、「信仰」や「信頼」などと訳されている「ピスティス」が、最新の聖書では「真実」とも訳されて、議論を呼んでいる。
 
どだい言語が違えば、指している概念も異なる。『ことばと文化』(鈴木孝夫)が、「lip」という英語が「唇」ではなく、lipからは毛が生えるのだ、と説いたのは非常に説得力があり、印象的だった。その概念が包摂しているものが、ぴったり重なるということは、あまり期待できないのである。
 
日本語では幾つかの概念で訳し分ける必要があるとすると、そのうちのひとつだけに限定して訳出すると、他の意味が感じられなくなる可能性がある。「信仰」というのは、人間の側が神を信頼するという方向性があるので、神から人間に対する場合はその訳語は使えない。そこで「真実」という言葉が用いられたのではないかと推測する。ただ、そこには属格の解釈という、また別問題も潜んでいるので、一筋縄ではゆかない問題ではある。
 
それでも、いくらかぼかすようにして、「ピスティス」には「信」と日本人が使う言葉のイメージが強いのではないか、という提案はできるかもしれない。それで十分とは言えないが、いくらか柔軟に扱える可能性がでてくる。できるだけ同じ語で訳出したほうが、読者のためには親切である、という翻訳のひとつのルールを弁えたものにもなるからだ。あとは、読者が解釈することに委ねるという立場であり、聖書のような宗教的なものは、それも大切な原則となりうるものであろう。
 
中学生の英語でも、「life」という語もまた、日本語にするとき、どの訳語を使うか思案することの多いものである。おおまかにそれは「生」という漢字でイメージすると、まず掴めるのではないか、と中学生に話をする。より日本語らしくするには、「人生」「生命」「生活」と、「生」の付いた熟語を使うことになるだろう。
 
新約聖書はギリシア語で書かれている。しかもそれは、古代ギリシア哲学の時代のギリシア語ともずいぶん変わってしまったものであるし、さらにイエス自身がギリシア語で話していたのではないだろう、という複雑な事情も重なってくる。ギリシア哲学でも使われていたのと同じ用語がある場合、これらの条件が、かなり厄介な解釈上の問題を含んでくることになる。そして私たちは二千年後の日本人であり、日本語である。先ほど述べた、概念の示す内容の相違を考慮に入れると、もうどう訳せばよいのか、見当がつかなくなるかもしれない。
 
逆に、日本語では同じとなっても、元のギリシア語としては別々の語である、そういう場合もある。その時、一連の文脈の中で同じ日本語で訳されていながら、原典を見ると別のギリシア語、ということがあって、これはできればなんとか区別してほしいとよく思う。
 
そこまでいかなくても、先ほどの「生命」を表すギリシア語としては、「ビオス」と「ゾーエー」が有名である。「バイオ」と称していまや科学の先頭に立つような「ビオス」は、案外「生活」や「人生」のような感覚で使われているらしいし、「ゾーエー」とくれば、ヨハネによる福音書が扱う「永遠の命」に沿った使われ方がよく知られている。この辺り、聖書学者から見れば緩い説明ではあるだろうが、ここは学問の議論の場ではないので、関心をもって皆さまがお調べになれば、それでよいと考えている。
 
しかし、生命という意味での「命」と訳されているギリシア語には、ほかに「プシュケー」というものもあるから、またややこしくなる。そしてこの「プシュケー」は、「からだ」を意味することがあるかと思うと、「心」と訳す場合もあり、「霊」でもありうる。それから「魂」という訳が比較的標準的である、とも言われる。「心」という概念は、現在、その主体の外部から(他者との言語におけるなどの関係の中で)つくられるという捉え方があるが、この「プシュケー」は、恐らく外部からもたらされるようなものではなく、その点「魂」のほうが、原義に近いと考えられるからである。関心をもたれた方は、まずWikipediaあたりから触れてみると、いろいろ学ぶことができるだろうと思う。
 
そこには、それが「息」を表す原義があるように書かれている。こうして日本語を並べてくると、そのどれもが、定義するとなると非常に曖昧な語であることに気づく。人の数だけ解釈があるような「心」などと訳されても、極めて自由な想像の泉に放り込まれたような気がする。もちろん、先に言ったように、聖書はそれでよいのかもしれないが、あまりに漠然としておくと、他方で意味を限定したがる者により、一方向への暴走も懸念しなければならなくなる。
 
このプシュケーは、ギリシア神話の美の女神にまで遡れば、また興味深い物語に出会うことができる。魂が愛を得、喜びを生むという、意味深い思索を体験できるかもしれない。他方、中国思想がまた捉え方を知らない私ではあるにしても、そこで言われる「気」という概念は、このプシュケーにどこか重なるものをもっているように、感じている。そしてこれが、日本人にとり、案外ストンと胸に落ちるイメージであるのではないかと思っている。気息・気質・元気・生気・気性・気合など、それが何であるか、という説明は難しいが、私たちがなんとなく会得している「気」の文字のもつ雰囲気が、私たちを生かす命や心、魂という要素を誘い出すように思われるからである。
 
しかしそれでは、聖書にある語としてのプシュケーに迫ることは難しいだろう。それでも、命を成り立たせる本質のようなものであることは、薄々理解できる。ただそこに、永遠不滅という概念を無条件に適用することはできない。それは、哲学を少し学んだら、どうしてもプラトン(ソクラテス)の「魂の気遣い」や「魂の配慮」という哲学からさらに、毒杯を仰いだソクラテスの信念たる「霊魂不滅」や、永遠の真理のための「想起説」が頭にちらついてしまうからであろうが、それは必ずしも古代ギリシア思想一般に見られるものではない。ヘラクレイトスは断片的な言葉でしか知られないが、人間の霊魂としてそれを捉えた点が画期的であったと言われる。ソクラテス以前の哲学者たちは、物事の原理を考えたという点で、確かに哲学の黎明期を築いたのだと言えるだろう。プラトンの「魂の不死」というテーマは、キリスト教思想に重なって、中世はもちろん、近代においても、哲学の議論が続けられていくことになる。それを、人間の認識能力を検討する超越論的哲学によって、誤謬であるとしてストップさせたのが、カントであった。
 
こうした事情があるので、聖書の時代に用いられる言葉は、私たちの理解ではなかなか量れないものをもっている。そうした捉え方は、ギリシア思想が一般に魂は不滅であるとしている、という思い込みからも、私たちを解放してくれることだろう。それはまた、聖書の言葉を一つひとつの語のもつ概念把握からスタートして、全体を理解しようとすることの危険性をも教えてくれるように思う。むしろ逆であり、人生における神の体験があって、それでこそ「魂」に感じられる形で、聖書の一つひとつの言葉の意味にさらに気づかされ、その人の中で神の言葉が生きて働く、という方向性が、ずっと適切である、と私は確信している。
 
だから、礼拝説教は、その神の言葉がその人の中で生きているという人が語ることによって、聖書の言葉が、聞く者を生かすようになるはずである。自分で自分を正しいと思い込むことを戒める。たとえばあのルカ伝の、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの比較においても、今日感動して自分は徴税人のようだと思い知らされた人でも、明日にはファリサイ派の人になってしまうかもしれない、という、人間の危険性を戒める。説教は、そのようにして、「魂」に何かを気づかせ、それを揺さぶるものであるだろうと思う。何故なら、それが人を生かす、ということになるからである。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります