【メッセージ】よい思い込み

2022年8月14日

(ヨハネ5:41-47, 申命記29:18)

もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、「わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ」と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる。(申命記29:18 新共同訳)
 
◆読まれていない
 
学習塾の子どもたちは、テストを受けるために通っています。テストとは、問題文があり、それに対して正答を書くものです。たぶん、知識やテクニックを競うものだ、というふうに、傍からは見えることでしょう。しかし、現場では頭を抱えます。何故か。そもそも問題文が、読めていないからです。答え方も「ひらがなで」とか「文末の五文字で」とかあるのを、完全に無視する子が続出。また問題の文章がそもそも理解できない、ということもしばしばです。これは年を追って、増大する傾向にあります。
 
一部には、文字をとても読んでられねえよ、という態度の子がいるのは確かです。けれども概ね、子どもたちは、それなりに読もうとしているのに、読む能力が全体的に劣化しているように見えるのです。只、これが大人であったらどうでしょう。テストのような義務がない背景では、また違う原因が考えられます。その文章を、読む気がさらさらない場合、意味が分からないということがよくあるように思えるのです。関心がないから、読む気持ちにならない、ということです。
 
私の投稿する文章など、タイムラインに流れてきても、全く読まない人がたくさんいます。いえ、どうせ長いし、ややこしく書いてあるし、文章は下手だし、読んだところで人間の罪を暴くような、気分のよくない文章ばかりです。読まれないことは別に構わないのですが、最近はっきり分かってきたのは、自分の教会の週報に印刷されている文章も、あまり読もうとされていないということです。最初にそこの週報を手にしたとき、誤字やおかしな文がいくつも見られることにショックを受けました。私も名前を間違えられて、それは困ると言うと、こんなことがあろうかと思われるほどに非難を浴びました。週報については、今後の予定などはちらりと見るでしょうが、特に、「説教要旨」がある場合、殆どの人がどうやら読んでいないようです。教会に来ても、説教には、全く関心がないようなのです。
 
見れば分かるのですが、ひどい文章であることが多々あります。「段落」の規則も守らずばらばら、(私もよくやらかすので自戒をこめて言いますが)誤字脱字も毎週あり、読点の打ち方が、教育現場からしてもありえないくらい酷いとなると、その人の文章能力の問題としか言えないのでしょうか。主語述語のねじれや、不適切な並列など、作文指導をするならば減点を何度すればよいのか分かりません。しかしさらなる問題は、これを誰も指摘しないし、改善もされないということです。SNS上へ転載するときにも、誤字脱字にすら気づかず、そのまま載せているとなると、もはや読んでなどいない、としか思えないわけです。
 
ところがあるとき、それまでの拙さとは打って変わって、文法的には整った文章の説教要旨が載ったことがありました。読点の打ち方まで、とても自然です。急激に文章能力が上がったのか、と目を見張りましたが、その次の際には、また元の木阿弥でした。あの整った要旨は、誰かにきっと推敲してもらったのでしょう。そうでなければ、まさか、どこかの文章のコピペであったということくらいしか思いつきませんから。
 
読む必要などない。どうせそれは話すから、聞いて分かればよいのだ。でもそれは、思い込みなのではないでしょうか。人間、思い込みというものは、たいへん怖いものです。危険なものです。聴く方のバイアスによって、権威のイドラでもはたらくのか、きっと良い話なのだろう、などと思い込んでしまうのは、事故を起こします。職場では、皆さんはそんなことはしないはずです。思い込みで仕事をする人は、残念ながら使いものになりません。
 
礼拝説教は、吟味しなければならないものです。それは、ケチをつけるという意味ではありません。本当にそうか、背後に何があるか、魂で考える必要があるということですし、それを自分の命の問題に引き受けて受け止めていくものである、ということです。説教は、神の言葉ですし、命の言葉です。命を与える言葉です。だのに、残念ですが、世にある教会の中には、説教を命の言葉だと考えられていない、そういう礼拝を毎週惰性で送っているだけの教会もあるのです。
 
◆他人事ではない
 
ヨハネによる福音書をお開きしました。他の三つの福音書と異なり、ヨハネのものは、かなりドラマチックです。私に言わせれば、殆どミュージカルのような演出により運ばれる物語が展開します。突然舞台の役者が歌い始め、全員が踊るというような、不思議な感覚が、この福音書の中には溢れています。
 
場面は、イエスのことをよく思わないユダヤ人たちがいて、イエスの命を狙うようにすらなった、そういう背景における、ミュージカル的な対話です。その中で、イエスが一気に語ったところを取り上げます。
 
41:私は、人からの栄光は受けない。
42:しかし、あなたがたの内には神への愛がないことを、私は知っている。

どきりとします。おまえの内には神への愛など、ないではないか。グサリと刺さるような言葉です。しかも、それをイエスは、「私は知っている」とダメ押ししてきました。イエスが「知っている」と言うからには、否みようがありません。私は、お白洲で取り調べを受ける悪人のように、ただひれ伏すしかないような者ですから。
 
43:私は父の名によって来たのに、あなたがたは私を受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、その人を受け入れるだろう。
 
クリスチャンは、ここを他人事として読む傾向があります。ああ、ユダヤ人たちのことだ、私はイエスを受け容れているから、イエスの弾かれた者は可哀想だ、とでも言うように。でも、私はいつも、そうした見方だけは避けるように、気をつけていますし、またお奨めしています。それは、私自身の神との出会いや救いを疑うとか、信仰の思いが揺らぐとか、そういうことではありません。私はどこまでも、主の警告を受けるべき、至らない者なのだ、という点を忘れないようにしたいだけです。
 
ほかの人が神の名によって来たならば、そちらのほうを受け容れるに違いない。イエスの指摘は辛辣です。私たちは、ほんとうにイエスを受け容れているのでしょうか。聖書の研究をしている学者に、いつもへつらっていないでしょうか。名ばかりの牧師というものにべったり寄り添って、立派な教会を建てましょう、とへつらっていないでしょうか。いったい、本当には誰を受け容れているのでしょう。
 
問い直すべきことは、多々あるように思います。
 
◆栄光
 
44:互いに相手からの栄光は受けるのに、唯一の神からの栄光は求めようとしないあなたがたには、どうして信じることができようか。
 
人間同士尊敬し合うことは、大切です。ひとを見下したり、価値なきものに決めてしまうことを、私たちの社会は、そしてまた私自身も、平気でやっているのですが、だからこそ、意識してでも、互いに敬う気持ちは失いたくないものだと思います。「互いに相手からの栄光は受ける」ことを、イエスは否定しようとしているのではない、と思います。
 
しかし、人々が「唯一の神からの栄光は求めようとしない」というところが、私たちが聞かなければならない点です。それは、先にイエスが、「人からの栄光は受けない」(41)と言ったこととつながります。
 
ただ、正直なところ、ここはもやもやとした気持ちになりませんか。私は、もやもやしています。「栄光」とは何か、ピンとこないのです。
 
たぶん、ある場面では「神の栄光」などといい、キラキラ輝いている神の素晴らしさを表現しているのだろうと思います。この「栄光」は、ギリシア語で「ドクサ」という語です。どうやらこの「ドクサ」は、旧約聖書がギリシア語に訳されたときに、そういう意味で用いられたようです。けれども、ここでは、人間が互いに相手からキラキラしたものを受けるというのは、なんだかぴたりとは定まりません。恐らく、同じ漢字をひとつ用いるならば「栄誉」とでもいうものに近いのだろうという気がします。「良い評価」あるいは「すばらしいと認めること」のような事柄を、「ドクサ」は含み持つのだろうと思うのです。
 
ユダヤ人たちは、というより恐らく人間たちというものは、互いに相手をほめそやすことには熱心かもしれませんが、神からの評価については、関心が薄いのだ、とイエスは指摘している、そう理解してみました。そして「人からの栄光は受けない」とイエスが言ったのは、いまこうしてユダヤ人たちに敵視され、非難を受けていることを、まずは認めておく、という意味にとりました。いまはまだ、ここでイエスは素晴らしい、というように言われる場面ではないのだ、と。しかし、やがてイエスは、自分が十字架に架かる時のことを、神の栄光を示すことになる、とさかんに言うようになります。
 
私が違和感を覚えたことについては、もうひとつ背景があります。「ドクサ」が、神に関するものとして表現されるときに、このように考える道が拓かれたのですが、古代ギリシア哲学においては、かなり違う意味合いでそれが使われていたからです。ソクラテスの対話を描いたプラトンの哲学において、「ドクサ」はよく「思いなし」と訳されました。人間が正しく真理を求めようとすることなく、自分の感覚や思い込みで、それはこうだ、と決めつけてしまう考えのことを指したのです。「考え」というような原義のある「ドクサ」ですから、やはり元来はそちらのように捉えて当然だったのだろうと思います。熟慮して、物事の本質を探究しようとすることなく、うわべだけで、なんでも知ったつもりになっているような「世間知」に対して、プラトンは、もっと真実を見抜けと問いかけているわけです。
 
しかしそれは、哲学的な理解を含めた形での、特殊な意味理解であったのかもしれません。人間の「思い込み」を、表面的だと批判した哲学者でしたが、それは神に対するときには「栄誉」という「良い評価」をもたらすものとして受け取られていたようです。
 
◆「栄光」を言い換えて
 
地上生涯で十字架への道を進むイエスは、人間から栄誉を受けることのない歩みをしました。「受けることがない」などという言い方を、私たちは自然に聞き流しますが、こうしたときに、ぜひ考えて戴きたい事があります。「受ける」とか「される」とかいう、受け身のような形の表現があるとき、その「主語は誰か」ということです。「イエスは十字架に架けられた」はひとつの事実ですが、では、「誰が架けたのか」と問うのです。
 
ユダヤ人? ローマ兵? ピラト? 祭司長たち? どれも、嘘ではないでしょう。大穴として、神、と言うひとがいても、それはそれでひとつの神学だと思います。実際、「神的受動態」といって、明記されない意味上の主語を神であるとして書いていた、あるいはそう読むべきである、という話もあります。でも、いつもそれでよいのでしょうか。そこから先は、私が決めることではありません。そして私には、ひとつの答えがほかにあります。
 
さて、元の話に戻りますが、イエスは、人間から栄誉を受けない。受ける間もなく、殺されていくことになりました。人々は、人間たちの間で互いに相手からの栄誉は受けるけれども、神からの栄誉を受けようとするつもりはない。そんなふうに、先ほどはお読みしました。「栄光」を「栄誉」と読み替えて理解してみたのです。
 
しかし、「栄光」には、「評価」のニュアンスもあるかもしれないことも、考えてみました。イエスは、人から評価をされないのでした。人間たちは、互いに評価をし合って満足はしても、神からの評価を気にしていないようだ、というのでした。
 
聖書は、プラトンの文章とは違います。プラトンは「栄光」とここで訳した言葉を「思いなし」あるいはもう少し分かりやすく言えば、「思い込み」のような意味で使いました。それだけで理解してしまうことはよろしくないのですが、いまは無茶をやってみます。すると、こうなります。イエスは、人間からの「思い込み」を受け取りません。人々は、世の中で互いに「思い込み」をやりとりしているようなもので、神からの「思い込み」を求めようとしない、そう言うのです。
 
理解不能でしょうか。こじつけかもしれませんが、また少し違う角度から、これを読むことがあってもよいのではないか、と私は考えてみました。人間たちは、イエスをメシアだとは認めず、けしからんやつだと思い込んでいました。それをイエスは受け付けるはずがありません。他方人間たちは、信頼関係などない中で、しょせん互いに理解し合うことなどないくせに、「思い込み」の付き合いを日々続けています。これなら幾らか共感して戴けるかもしれません。
 
では、神からの「思い込み」を求めようとしない、というのは、どうこじつければよいでしょうか。神は、私たち人間に対して、どのような「思い込み」をなさるというのでしょうか。このことは、もう少し後で、もう一度問うてみたいと思います。ただ、この結果ユダヤ人たちは、イエスを信じることができない、と言っています。これは、イエスを信じるか否かの、ターニングポイントとなるらしいのです。
 
◆クリスチャンの姿
 
45:私が父にあなたがたを訴えるなどと考えてはならない。あなたがたを訴えるのは、あなたがたが頼りにしているモーセなのだ。
46:もし、あなたがたがモーセを信じているなら、私を信じたはずだ。モーセは、私について書いたからである。
47:しかし、モーセの書いたことを信じないなら、どうして私の言葉を信じるだろうか。
 
ユダヤ人、ユダヤ人、と言うと、差別的に響く可能性があります。聖書にそう書いてあるから仕方なくそう言いますが、それも言い訳かもしれません。差別は、自分がしていない、と豪語する人こそ、根本的にやっているような、そういうものだと思います。私も多数しているし、その網から逃れられないだろうと覚悟しています。中には、差別的な記事を、わざわざ引用して、ほらひどいでしょ、と拡散する人がいます。その記事で差別されている人の苦しみが、想像できないから、そんなことができるだろうと思うと、悲しくなります。
 
ユダヤ人を、ヨハネは、やはり差別していると見るのは当然だろうと考えます。しかし、私はよく思います。聖書の記事で、批判のような書き方をされているときの「ユダヤ人」は、別の言葉で言い換えたほうがよくはないか、と。ここでは、18節に「ユダヤ人たち」が場面に設定されていますので、確かにユダヤ人たちのことをズバズバ指摘しているわけですが、当時のユダヤ人というのは、神の教えについての正義をいわば独占し、自分たちの理解が正しい、と思い込んでいた人々でした。
 
お気づきでしょうか。これは、今の世の中では「クリスチャン」と理解しているような人々に当てはめることができる、ということに。もしあなたがキリスト教信仰をお持ちなら、まさにあなたです。信仰をお持ちでない方は、教会に集まるクリスチャンたちのことだ、と見なしておいてください。
 
クリスチャンのことを神に訴えるのは、モーセの律法ですよ、と言っています。もし律法を信じているなら、イエスを信じたに違いないそうです。もし律法を信じないならば、イエスの言葉を信じるはずもないのだ、ということになります。
 
イエス・キリストが現れてからは、それまでの神の言葉とみられていた旧約聖書から、次の新たな新約聖書の時代に変わった、と理解されています。しかし、旧約聖書はイエスのことを実は含んで書かれてあるのだ、というのがイエスの理解です。旧約聖書において人々が待ち望んでいたもの、それがイエス・キリストです。律法とありますが、旧約聖書へと目を向けても大きく違いはないものと思われます。旧約聖書のことを、実は分かっていないのではないか、と。
 
ユダヤ人たちは、イエスを殺そうなどとしていることが、この厳しいお沙汰の背景でした。クリスチャンたちは、イエスを崇めているはずです。ずいぶんと話が違うような気もします。――でも、本当に、そうでしょうか。ここから先は、私は干渉しません。ご自身の魂に、問い直して戴きたいのです。自分はイエスを蔑ろにしていなかっただろうか。イエスを口先だけで称えるとか信じるとか言いながらも、その実イエスの弟子に相応しくない言動をしていなかっただろうか。イエスを冒涜していなかっただろうか。
 
問い直して戴きたいのです。もちろん、私自身が、いずれもに思い当たる、当の本人です。
 
◆神の思い込み
 
先ほど、神からの「思い込み」を求めようとしない、というのは、どう解釈すればよいか、と問いました。神は、私たち人間に対して、どのような「思い込み」をなさるというのか、こじつけでもいいから、理解できるものならしてみたい、と考えました。
 
いま、自身の姿を、私たちは自ら問い直しました。「ユダヤ人」たちの話だ、と他人事のように見ていた先程までと打って変わって、もしかしたら、イエスを本当には信用していなかったのが、この自分なのだ、という眼差しを、自身に向けてくださったでしょうか。少なくとも、私はそのような思いで一杯になりました。しかし、そうでない人もいらっしゃることでしょう。結局自分が悪いとでも言うのかよ、とお怒りの方もあるかもしれません。そうした方には、これからの私の話は、意味がないかもしれないので、ご退出されても結構です。
 
私は、自分が、神への愛などないような気がしてなりません。いったい何を愛しているのか。自分自身を愛しているだけではないのか。お金かもしれない。殆ど大したものではないけれども、財産かもしれません。親や家族かもしれません。地位や名誉かもしれません。「あなたがたの内には神への愛がない」と言われると、ズキッとします。イエスを「受け入れない」との非難も、当たっているように思えました。心の壁が、そこから先へは踏み込まないでくれ、と叫んでいるような気もしてきました。
 
思い起こしてみます。私は、神に愛されるに価しない者でした。醜い心に満ち、判断は歪み、極めて自分本位で、計算高い、悪辣な者でした。神が、けしからん人間を裁くとすれば、真っ先に裁かれるような者なのです。しかし、神は、私と神との間に、イエス・キリストという証人を置きました。罪には罰が必要であるなら、その罰はここにもう為し終えたではないか、とでも言うように、イエス・キリストが十字架で無残な死を遂げる姿を、そこに置きました。ただこのイエス・キリストは、ただ死んだのではない。復活もしたのだ、と突きつけてきました。
 
この罪は、元来神の前に、赦されるような代物ではありませんでした。その罪に応じて、私は裁かれて当然でした。けれども、イエス・キリストがそこにいたことで、なんと神は、私に対して、「思い込み」をしてしまったのです。「こいつは無罪だ」と――。
 
◆よい思い込み
 
最後に、申命記を開き、今日考えるに相応しい話題を、ひとつご提供します。
 
18:この呪いの言葉を聞いても、心の中で自分を祝福し、「心をかたくなにして歩んでも、私は大丈夫だ」と言うなら、潤っている地も乾いている地と共に滅びる。
 
これが、新しい聖書協会共同訳ですが、これだけ見ると、今回のお話との結びつきがよく分かりません。そこで、ひとつ前の、新共同訳からこの節を拾ってみます。
 
29:18 もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み、「わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ」と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる。(新共同訳)
 
祝福と呪いとの対比が、申命記には多々ありますが、個々では、人間が、呪いを祝福だと「思い込み」、大丈夫だとでも言うならば、滅びである、というように言っています。
 
私たちは、思い込みます。「祝福されている」と思い込むのは、お気楽でよいかもしれません。しかし本当は祝福されていないのに、そのように思い込んでいるならば、悲惨な結果が待ち受けていることにもなります。自分でも気づかないうちに、自分の頑なな思いが自分を支配してしまうことがあるからです。いつの間にか、信じている自分の方が、神よりも偉くなります。神を部下のように扱い、願いを叶えさせようとした、かつての偶像崇拝と同じ道を辿ることになりかねません。
 
今日は8月14日。今から77年前、太平洋戦争が、基本的に終わりました。ポツダム宣言受諾を決定した日です。戦争の終結は、降伏文書署名による、との考えからすれば、9月2日とすべきでしょうが、事実上の終結は14日です。
 
しかしいまや、15日が、戦争が終わったという理解が広まっています。これは、閣議決定されただけの全国戦没者追悼式を、戦後18年経ってから、15日に行うようになり、さらにその4年後にその日を「終戦日」と呼ぶ法律ができたことによると思われます。なぜ15日が選ばれたのか。それは、天皇の声が、国民の耳に届いた日だからにほかなりません。つまり、天皇中心の世界観を基底に置いて、20年ほど経ってから、恣意的につくられた記念日であるわけです。これは、天皇がいわば「祭司」となって、国の行く末を宣言した、との思想を行き渡らせることと同じでした。
 
それをいまや殆ど誰も意識しないばかりか、「終戦」ではなく「敗戦」だ、と息巻くラディカルな人々も、15日という日付を基準にしてしかものを言わないことからしても、いわば釈迦の掌で飛び回っていた、孫悟空のような姿を披露しているだけだ、ということが分かります。全くの「思い込み」です。依然として、まんまと天皇の政の前にひれ伏すように操られているだけのものです。
 
ここは、神の言葉を聞き、告げる場です。政治的な意見を申し上げる場ではないと考えます。ただ、ひとには「思い込み」があるのだ、ということを、今日の日付に関してお伝えしたかっただけです。
 
自分では批判しているつもりでも、いいように操られている自分の姿に気づかない、そうした「思い込み」は、どこか空しいものです。サタンの策略というものは、多分にそういうものなのでしょう。
 
しかし、きっと「よい思い込み」もあるだろうと思います。自分の感情や信念といったものを基準にせず、外からの声を聞いてみましょう。自分の中には、なんら価値あるものがない、と痛感した上で、神からの恵みを内に満たすことができたら、如何でしょうか。
 
それをもたらすのは、聖霊だ、と聖書は指摘します。聖霊は、ひとが自分に死に、新たな命を受けて新しく生きるように、導いてくださいます。これは、まだ体験されたことのない方には、どう考えてよいか、分からないだろうと思います。けれども、それがキリスト者の神髄です。ぜひ、求めてください。宗教や信仰というものが、またもや怖いものであるかのように、煽る世の中において、いまお伝えしている「信仰」というものは、「よい思い込み」を与えるものだと信じています。その「思い込み」がよいものであるかどうかは、神のほうで証明してくださることでしょう。そのように、神にお任せし、神を信頼するということが、いま私たちにできる、精一杯のことです。あなたにもお奨めできる、すてきな「思い込み」です。あなたの歩く道のその先が、明るい光に照らされることを約束する、「よい思い込み」であるはずです。私たちが、人や社会を「信頼する」ことができるのであるなら、神への信頼は、それほど特別なことではないような気がします。「よい思い込み」は、いくらでも何度でも、お勧め致します。



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