世の終わりを

2022年8月14日

聖書は、「世の終わり」について、しきりに叫ぶ。ユダヤ文化の時間概念の中には、直線的で、終末がある、という観点が確かにある。
 
日本史でも「末法思想」というものがあった。仏教思想に基づくもので、たとえば平安から鎌倉時代に大いに広まった。ブッダの思想が、衰える、あるいは滅びるというような考え方に基づいているのだという。
 
当時は、武士の台頭により、歴史が大きく変わる頃であった。世の乱れや変化を見て、一種の世界の終わりを感じたとしても、不思議なことではあるまい。この時代に限らないが、古来人間は、戦乱もさることながら、飢饉や天災に大いに苦しめられてきた。筆舌尽くしがたい世情の中に、人々は地獄を見ていたのだろうと推測する。
 
いま私たちも、世界の混乱や苦しみを見ている。但し、痛ましい戦争も、まるでゲームの一場面のように、画面の中に眺めているばかりだ。映画のシーンと同じだという程度に、さして刺激的に感じることなく、残酷な現実を傍観できる時代環境の中にある。
 
世界の隅々から――ほんとうは隅々からは来ないのだが――情報が入ってくる。それは、地球全体の危機についても知る機会があるということだ。ただその情報も過多となり、無感覚になっているような気がする。ふと気づけば、地球規模でおかしくなっているのではないか、という思いが体を震わせる。
 
聖書に書かれていたような時代、権力者が何をしようと、弱い立場の者たちが逆らえる余地はなかった場合が多かったことだろう。そこへ、弱者視点で、救いがあるのだと信念をもっと説く人がいたら、なびいていくこともあっただろう。ルサンチマンだなどと陰口をたたかれようが、弱者の心を支えるものがあったとすれば、それが与えた強さというものは、安易に批判はできないだろう。
 
いまの私たちは、その弱者であるのだろうか。政治が悪い、政府はけしからん、と吠える限りは、恰も弱者であるかのように見える。けれども、そうだろうか。被害者意識をもつことにより、自分は正当だ、と言いたい心理の中で、いつの間にか強者の側に立っている、ということがないのだろうか。あるとすれば、弱者を装っているだけに、より悪質なやり方だということになるだろう。
 
私たちは傲慢である。自分正しさを示すためには、なんでもするし、なんでも言う。この思い上がりを、なんとかしてくれ、と叫びたい。神になりたがっている。皇帝のような立場に自分があるのだ、と勘違いしている。多くの人間が、そのような思い込みで、強者になろうとしている中でこそ、争いと混乱が生じるのを、なんとかしてくれ、と叫びたい。
 
パウロは、そうした罪人の先頭に自分がいるのだ、という思いから離れることはなかったと思われる。だからこそ、常に弱さの色に染まりながら、強がりと自己義認ではない、強さというものを与えられることができたのではないか、と私は見ている。
 
世界は終わるだろう。科学的な予想が適合しないから、終わりなんてない、と嘯いている輩には、勝手に言わせておけばいい。賢い人は、そういう声に靡くことはないだろう。古人の見ていた絶望的な世の中のありさまをも、また、いま世界で起きている絶望的なありさまをも、想像と知識に恵まれた私たちの優位的環境を精一杯用いてでも、改めて天を見上げ、自分と神との関係とつながりについて、しばし瞑想してみることが必要だ、と切に思うのである。



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