水の事故と自然と人間

2022年8月8日

ゲリラ豪雨だとか、線状降水帯とか、以前には聞かれなかったような用語が、あたりまえのように飛び交っている。洪水は痛ましい。だがまた、夏の水となると、水の事故もまた、痛ましい。子どもや若者が命を奪われることも多いから、なおさらだ。
 
1立方メートル、つまり1メートルを縦・横・高さとした大きさの水を想像しよう。その重量がどれほどになるか、小学生にいつも計算させるのだが、過程はいまは省略して、結論を出すと、1トンである。1トンは、やや小さめの乗用車くらいの重さである。ヴイッツやマーチ、フイットは、運転手が乗った時点で1トンを超える。
 
津波が何立方メートルあるかは計り知れないが、自動車がどのくらい襲ってくるか、もう恐怖以外の何ものでもない。しかし、なにげない川でも、鉄砲水と呼ばれるものがある。突然堰を切った水が流れてくると、やはり自動車が大量にぶつかってくることになる。生身の人間が勝てるわけがない。
 
川の流れは、カーブを描くとその外側で速くなる。小学生は皆知っている。そこに足を突っ込むと、簡単に流されるだろう。急に深くなる場合もあるし、土地環境によって流れが変則的になり、人間ではどうにもコントロールできなくなることもあるという。
 
自然に対する知恵や知識の無さが、事故を招くともいえる。甘く見るということだ。あるいは単なる無知ということもあるだろう。ここでいう「自然」という概念が、近代人の偏見に基づくものであるのではないか、というような議論については、いまは措くことにしよう。人間はこの自然の一部として、生きているのだろうか。自然がみな生命あるもの、と見るとアニミズムに陥るが、自らが生命あるものだと自己意識をもつところに、人間(その概念についても判断は中止しておく)の特質がある、という見方は可能であろう。
 
その人間、思考機能を高速処理ができるコンピュータに委ねるようになってからは、そのバーチャルな計算結果によって、何でもできるかのように、思い込むようになってしまった。人間は、全能の神に、いまなおなりたがっているばかりか、自分が神だと勝手に思い込むようになってしまったかのようである。
 
しかし、目に見えないウイルスによって、人間が築いた社会や経済のシステムは、簡単に破壊されていく。人間の性は、いま醜いところがどんどん表に出て来ているように感じられる。壊れているのは、地球環境ではない。人間の精神ではないか。
 
それにしても、せめて水の事故は、避けられる分には避けることができるようであってほしい。その思いが愛に関係しているのだとすれば、祈りは聞かれているはずだ。神の愛とは何であるのか、また顧みる機会となることだろう。



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