医療崩壊を起こしたのはわたしだ

2022年8月6日

いよいよ病院が機能しなくなってきている。自分が医療崩壊を起こしている、という自覚がない人が多いだろう。マスクなんか、と外したことは、医療崩壊の原因である。消毒を怠ったことは、医療崩壊の原因である。
 
だったらどんな小さなことでも、原因となるのか。おまえはどうなんだ。そう言われるかもしれない。はい。私も、医療崩壊を起こした当事者である。そういう意識でいる。
 
世の人は、そんな馬鹿な、と、こうした声を無視するかもしれない。だが、キリスト者というのは、そういうものだ。このような意識をもたない人は、キリスト者ではない。
 
なぜなら、それは「罪」という問題とパラレルだからだ。
 
教会に人を連れて行ったら、「教会に行くと、罪、罪、と言われるから、行くのが嫌になった」と言われた、そんな話が、四半世紀前にはよく聞かれた。それくらい、教会では「罪」という言葉がよく語られていた。もちろん、私の経験した範囲であるから、すべての教会がそうであったかどうかは知らない。だが、諸事情でいくつかの教会に居場所を替えてきた私は、それほど宗旨の違う教会を経験してきたわけではない。にも拘わらず、近年「罪」という語が、教会でさっぱり聞かれなくなった。
 
「罪」ばかり言うと、人が寄ってこないから、などという理由なのだろうか。それとも、そもそも語る者の中に、「罪」という感覚が存在しないのだろうか。
 
それだったら、分かる。医療崩壊の当事者はあなただ、と言われたときに、いったい自分が何をした、と憤る「クリスチャン」がいそうであることが。あるいは、無邪気にSNSで、医療崩壊の原因を振舞っている様子を公開していることが。どうりで、医療従事者のための祈りが、教会や教会関係者から、すっかり消えているわけだ。2年半以上、自分についてのあらゆることを犠牲にして、人々の命のために仕え続けている医療や保健の関係者のことを忘れていられるというのは、人々の命のために仕え続け、命を捨てた主イエス・キリストを忘れている、ということとパラレルであるに違いない。
 
罪を意識しなくなった教会、とくに自らの罪を意識しなくなった信徒は、別の意味で死を迎えることだろう。罪に死に、主と共に生かされる、というのとは、別の意味で。
 
救いは、罪から、なのだ。その罪を意識しないとなると、救いが、ありえないのである。
 
日々、新規感染者数を書き留めつつ、現場で労する方々のことを、貧しい想像力で精一杯想像する生活が、続いている。どうか、今日、この時に、助け守られているように、と願わない時はない。私の家族は、医療従事者である。当人は直接、私は間接的に過ぎないが、闘い続けている。教会の助けは、この期間、全く感じたことがないが、それはもう仕方がないことだと諦めている。ただ、助けてくださる牧師と教会が最近現れたことについては、心からありがたく感謝している。その命の言葉のメッセージは、私たちにとり、命の泉となっている。



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